NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

時代を演出した男

ブルガリを作り上げた男       深江 賢

ひとつの時代を演出した男がいた。
 日本の四大商社のひとつ、伊藤忠商事(ITC)に在籍していた深江賢だ。
 深江は西武とのジョイントで、イタリアンファッション「ジョルジオ・アルマーニ」(GA)の営業担当副社長をしていた。
 1980年代後半、日本国中がブランドバブルに沸き、GAは日本人の誰もが知っている、押しも押されもされぬブランド力を手に入れていた。だが、1990年に入るとバブル崩壊が近づき、各ブランドの勢いに翳りが感じられてきた。しかし、GAは突出した知名度とブランド力で軌道に乗っており、その地位は揺るがないと感じていた深江は、別のプロジェクトを手掛けてみたいと考えていた。

そんなとき、役員からの呼び出しがあった。
「ITCとブルガリとの新規合弁事業が始まる。そのトップとして行ってみないか」
それは短期間の出向要請だった。
実は、その役割を請ける筈だったのは社内の別の男だったという。しかし、その男は海外にいて間に合わない。この新規合弁事業会社をブルガリジャパンは2月がスタートだ、彼が帰国するのは早くて5月になる。すぐには対応が出来ないと言って来たのだ。

ブルガリの日本進出は遅く、1991年にブルガリ・ジャパンを設立、その年9月に赤坂紀尾井町に旗艦店を華々しくオープンした。しかし、1993年までは、なかなか結果が出ないでいた。最悪時を超えるには短時間の出向では何もできないと感じていた。

深江は思った。この新たな事業を何が何でも成功させるには移籍しかない。


大きな反対の声を聞いた。しかし、深江の気持ちは固まっていた。1993年末ブルガリに身を置いた、移籍だ。深江は学生時代からの熱いアイスホッケー・プレイヤーだ。そうだ、チームだ。日本で事業を成功するにはまず、マーケットに対する戦略が必要だ。それには、人材の確保が第一だと考えた。最高のチームを作ろう。

 

新規採用者は厳しい規則が待ち受けていた。深江は従来の顧客に対応する仕方を変える事から始めた。パートナー会社「アオイ」からベテラン販売経験者の販売の仕方を参考に、新規採用者の教育をスタートさせた。

今までの媚びるタイプから、ブルガリ式販売スタイルを徹底的に叩きこんだ。ブルガリ式は顧客に対して、簡単にいえば無視することからスタートだ。店内のジュエリーは壁ケースにはディスプレイされているが、販売員からのアプローチはない。顧客が望めば対応してくれる。従来の方法とはまるで逆だ。

この販売スタイルは、全世界のブルガリショップでの販売方式だ。ブルガリジャパンの基本になっていく。顧客のプライドを保ち、ブルガリというブランドを守っていく販売スタイルは流石だ。こうした様々な新しいブルガリスタイルの教育が、今の深江の重要な役目になった。徹底教育は必ず成功すると深江は感じた。その成果を肌で感じ始めた。

同時にブルガリジャパンの要、広報のトップに深江がGAで採用した鳥羽秀子を据えた。日本であまり馴染みのないブルガリの知名度をどう高めていくか。鳥羽は深江の考えをいち早く理解して動いた、メディアの有効活用だ。

ブルガリの基盤である、ジュエリー、時計、アクセサリーをメディアでどう展開させたら人々の興味を引くか、深江はそれを鳥羽チームの判断に賭けた。

鳥羽は「とにかく商品を見せよう、それなしでは何も始まらない」と、まずメディアを招待するパーティーの準備にかかった。だが、ブルガリ・ジャパンにはその予算がなかった、深江は思い切って、ブルガリ本社のトップに訴えた。

創業者であるソティリオ・ブルガリの二人の孫、パロオとニコラがそれぞれ、会長と副会長としてそれぞれの役割をこなしていた。

驚くべきことに、全てのブルガリの経営実権を1985年に当時27歳であった、甥のフランチェスコ・トラーバニ譲った事だ。イタリアはファミリーを大切にする。グッチ、フェンディ、フェラガモ、全てが家族経営だ。もちろんブルガリもそうだ。

フランチェスコ・トラーバニ(FT)は、日本マーケットを攻略する手段は、多くのメディアを取り込むことだという深江の言葉を理解してくれた。

深江は素早く鳥羽に指示を与えた。メディアに向けての様々なイベントは、時代とあいまって次から次と成功し、ブルガリの知名度は日本のメディアを通して、瞬く間に広がりを見せた。同時に売上も急激に上がった。販売員たちも見事にブルガリ流販売に染まった。

若いブルガリ社長の人柄と経営に対する斬新な考え方に魅せられた深江は、その後のFTとの絶大な信頼関係に結び付いていく。いわば男同士の絆のカギがこの最悪時の移籍決断にあったことだ。

 また、ブルガリファミリー以外で唯一人、深江がメディアに露出することを許されたのもこのファミリーとの絆があればこそだ。ありえないし、考えられない事柄だ。

"永遠の夢"を若い人たちの胸に刻んで欲しいという「ブリリアン・ドリームス・アワード」も年ごとに厚みを増し、日本の未来の夢を託す、若い有望な人たち(松坂大輔、浜崎あゆみ、など)にブルガリから時計が贈られた。

「ブルガリ・アート・オブ・デザイン」はブルガリアートの100年来の歴史と作品の数々を披露したイベントだ。

パオロとニコラは深江の理解者だ。フランチェスコも深江とのコンビを深く望んでいて、東京とローマがファミリーになっていくのが深く感じられ始めた。

深江は思った。誰も出来なかった、ローマ社長室を秘書を通さずダイレクトにFTと話せた13年を省みた。このまま続けていくことでいいのか。停滞への恐れが心に広がり始めるとともに、興味の陰りが少しずつ肌に触れてきた。21世紀のブルガリを誰かに演出してもらいたいと考えた。

座り続けてきた皮張りのデスクチェアが深江の歴史を物語っている。ブルガリは深江の全てだ。自然に時が流れ、新しい勢いが生まれ、作品が生まれ続けていくうちに全てを閉じたい。

 深江はゲームの流れを新しいブルガリのトップに託した。深江は、自分が永遠にブルガリチームの中に息づいているのを感じていた。新しいアイスホッケーのゲームのホイッスルが鳴った。

 

 

 

シェラトン都ホテル東京

ロビーラウンジ・バンブーにて

企画構成、取材・文=永澤 洋児
フォトグラファー=五頭 輝樹

「深江賢とブルガリ」
このサイトで次回から「ブルガリと私の回想録」始まりますご期待ください。