NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

洒落・おやじの青春取材記  6 工藤 毅志

        1964年・東京オリンピックを顧みて・9月号

「失われた時を求めて 或いは追憶を紡いで5年後へ」

何処かで聞いたような表題だな~と感じた方は大勢いらっしゃるでしょう。出だしの「失われた時を求めて」は20世紀初頭のフランスの作家、そうです、マルセル・プルーストの長編小説の本のタイトルです。この有名な小説を僕はほんのさわりを見ただけで、殆ど読んでいないのですが、若いころはこのタイトルがやけに気になったのです。

物語は、語り手がある日、口にしたマドレーヌの味をきっかけにある町で過ごした状況が蘇ってくるところから始まって、自分が生きてきた歴史が延々と続いていくというのですから読むには大変。

要は、プルースト流に言えば、誰でも、食べ物を口にする以外にも、匂いや香り、スカーフの色や風景や音色、仕草など挙げればきりがないが、それに関連付けられた事象を想い出すことが読者の皆さんもあるでしょう。今回は洒落にもならないけれど、おやじの青春取材記は、この導入が必要だったのです。大いなるこじつけだが、僕にとっては大切なことなのだ。

で、何時、何処で? それは8月8日(土)暦の上では立秋だが、猛暑続きの最中に、場所は自宅で、TVや新聞などの報道で猛暑以上に熱く、喧しく流れる「5年後の東京オリンピック、仕切り直しの国立競技場問題」を見聞きして、僕が経験した半世紀前の東京オリンピックのことが思い出されたのだ。そこで、保存してあった古びた資料を引っ張り出した。

そこで時を1964年に戻すことにしよう。下記の写真は、オリンピック・ポスターと、週刊朝日オリンピック案内 。

僕は大学4年生。頭の中には、第18回東京オリンピックが開催という事実はま

だ、他人事のようだった。一学期が終わるころ、早大文学部の教室に、仏文の生徒が呼ばれて面接があった。全員だったのかどうかも覚えていないが、教室にはフランス人の男性が居て、いきなり「君の名前は?」フランス語で尋ねられた。「ジュ マッペル タケシクドウ」と仏語で答えると、授業のテストでもないのに、短い簡単な会話をしたようだった。

それが、10月10日から始まる東京オリンピック1964年の学生アルバイト用のテストだったのは、それから直ぐに判った。

勿論、オリンピック実行委員会での外国語の通訳や各語学の役員達は、然るべき専門組織で準備していることは十分に承知しているので、いったい何をするのかと思った。

古代オリンピックの発祥はギリシャだが、近代オリンピックは、フランスのクーベルタン男爵がスポーツ競技の重要性を感じて、世界平和の為のオリンピック競技の復興を提唱して1896年に第1回アテネ大会が始まったから、何処で開催されようが、クーベルタン男爵に敬意を表して最初は仏語、次は開催国語、そして英語の順になっているようだ。

だからではないが、英語を喋る日本人はかなりいるから良いとして、ちょっとでも仏語を話せるガイドが必要だったということで現役学生のアルバイト探しが始まったのだろう。

夏季休暇が終わると10月開催に合わせての準備が忙しくなる。

このオリンピックに合わせて必要な施設の建設などが東京を中心に行われていたのは、自宅近くの道路の拡張工事が最終段階に向けての進行具合を見れば判るし、来日する観光客宿泊のホテルの急増も、東京~新大阪を結ぶ東海道新幹線もほぼ出来上がり、「さあ、どうだ」のお披露目も真近かであった。一番大変だったのはやはり、宿泊施設だったようだ。

僕のアルバイト先は晴海埠頭であった。何と、大型客船が停泊できるのは晴海埠頭だったからであり、欧米からの観光客が、当時のソ連を経由して、ハバロフスクから大型客船で東京の海の玄関口に到着するという訳だ。予測できたホテル不足を見越してか、ソ連船のウラジオストック号とトルクメニァ号がそのまま滞在中のホテルになった訳だ。そこで、晴海埠頭に急ごしらえした晴海営業所のエージェントに僕ら大学生アルバイトが雇われたのだ。

オリンピックニュース
オリンピックニュース
ガイド用資料
ガイド用資料

手元にある当時の資料を見ると、この両客船で来た国の人数は、当然だが前者の船がソ連邦からは170人、ハンガリーから101人、後者の船がフランスとイタリア合わせて235人となっている。ドイツ人も24名だった。米英等その他は当然空路で羽田に着いただろう。

ここから各会場へは、オリンピック期間中(10月10日(土)の開会式から24日(土)の閉会式迄)毎日、借り切りのバスで送り迎えすることになっている。

それ以外にも、晴海から銀座まで、ワンコイン(100円)の外国人専用バスもあった。

この旅行会社は、日本とソ連以西が中心で、欧州に行くにもモスクワ経由のアエロフロート航空でのツアー企画をしていた。その逆も当然あったのだから、50年前の彼らにとってはファーイーストにある日本に来るには、今みたいに1日に何便も飛んでくる様な訳にはいかないし時間的にも経済的に考えてもこのツアーは打ってつけだったに違いない。

この晴海組の受け入れ体制は、ロシア語ガイドが7人、英語対応が3人、フランス語対応が僕を入れて5人、イタリア語対応が3人、ドイツ語が1人と総勢19人の学生アルバイトであった。そして、客船が入港するのは、開会式の2日前の8日(木)。

それまでにひと通りの研修を終えた。

1964年・オリンピック・はとバスツアー

ガイド時のバスとディクテ


 

 その一つに、都内半日のツアーが用意されていて、その為に、事前に自分たちが実際、英語の「はとバス」に乗って、どんな説明をしているか体験して来い、ということだった。ツアーの前日に、学生アルバイト即席ガイドにコースの概要が渡されて、慌てて家に帰ってから、そのコースの内容を調べて、小さな紙に、フランス語の辞書を引きながら何とか作文をした。翌朝、僕が担当のフランス語バスに乗り込んできたフランス人は、一様に明るかった。

今思えば別のフランス用バスがどんなだったか知る由もなかったが。バスが晴海埠頭を出て直ぐに、「僕は仏文の学生です。今勉強中で、プロではないけれどもディクテ(作文)してきたので、それを見ながら説明しますので、ご容赦ください、とたどたどしい仏語で喋ったら、バス中がワ~と湧き上がってやれ~の号令と拍手の嵐にあった。

これでひと先ず、ほっとして作文を読んだのだ。丁度、新橋を通過するところで、「ここは、新橋というところで、明治時代に日本で初めて此処から横浜まで汽車が走ったところです。この日本語は、パリを流れるセーヌ川に掛かっているポン・ヌフ(ポンは橋でヌフは新しい)と同じですと言ったら、真ん中辺りに座っていた赤ら顔の太ったおじさんが、「違うよ。それじゃ~リンゴだ。(リンゴはポムと言う)「レぺテ・レぺテ(リピート)発音してごらん」と催促したので、発音の難しいNの鼻母音を何回かトライして「ポン」と完璧にできたらバス中が拍手に包まれてほっとした。

彼は、パリ市内で肉屋を営んでいて、パリの中で一番美味い肉を売っているんだよと自慢げに話していたが、パリっ子にとっては特にフランス人は発音が大事なのだとつくづく思った。ガイドの役が思わず生徒の役に変わった瞬間で愉しい思い出の一つになった。

更にもう一つこのバスで用意したものがあった。それは、退屈凌ぎにと思って、日本の有名な歌で覚えやすい「さくら・さくら」の歌詞をローマ字で書いてコピーした紙を、時間が余った時に配って、このメロディを歌うから「レぺテしてね」と歌ったら、全員が歌詞を見ながら見様見真似で歌ってくれたのだ。フランス語を勉強している学生だがまあ、一生懸命じゃないかと、皆が俄か学生ガイドを許してくれたのだとこれも懐かしい思い出だ。

バスを降りるとき、一人一人と握手をしながら、彼らの優しい想いに感謝したのだった。

毎日毎日、朝から夜まで、競技場へお客を運ぶのだが、それぞれの国民性が出て面白いことも沢山あった。フランス人専用バスは、いつも空いていてキャンセルになることが多かった。彼らの目的は開会式と閉会式は勿論だが、後はお得意のフェンシング観戦が大事なのだ。

都内から外れた郊外などで時間をかけてバスに乗って、しかも競技が米ソ対決というのは興味がないからだ。それより、外国人専用バスで銀座に出掛けるか、旅行に出かけたいのだ。

それに反して、ソ連人バスは、毎日きちんと出かけて戻ってくるのだ。ある日、陸上の試合が競技場であった時、ソ連邦のバスのガイド役が足りなくて、僕がそのバスのガイド役を仰せつかった。無論ロシア語は判らないので、どうしたらいいか聞いたら、前に座っている男性が辛うじて英語が判るから、彼に話せば皆に伝わると言ったので不安だったが、いざとなったらジェスチャーでと観念した。ソ連は共産国だから、上からの命令は伝わる。バスに乗り込むにも皆整列してきちんと乗って座ってくれる。今日は陸上競技で、米ソ対決の様子であった。競技場に着いて例の英語が判る男に、「ここで、9時に待っているから、必ず此処だよ9時に」とジェスチャーを交えて伝えた。さて、戻ってきた彼らの顔が冴えない。

負けたのかな?と思ったが、帰りの車中と降りるときにはっきりと判った。往きはあんなに楽しそうにワイワイ騒いでいたのに、帰りの車中はお通夜のように声一つ発してない。おまけに、降車時に「お休みなさい」と覚えたロシア語で挨拶しても、老若男女、俯いたままの格好で降りたのだ。まだ当時は米ソ冷戦の最中だったからだろうが、スポーツ競技まで響いていたのかとがっかりもした。

ハンガリーから来たという女性が、埠頭の石に座ってリンゴをかじっていたのを見かけて会釈すると丁度昼時だったので、国に帰ると沢山あるのよ、と言い訳のように笑って応えたのも不思議だった。

仏語パンフ
仏語パンフ
旅行先のパンフ
旅行先のパンフ

会期中、箱根や日光、京都等の小旅行に出掛ける人も少なからずいた。

事務所から、連絡があって「フランス人2組の夫婦を九州までの旅行に連れていってくれ」ということであった。

JTBのツアーを申し込んだというので、付き添いの出張であった。フランス語がそんなに喋れないのに何故、僕だったのかと聞いたら、例の都内ツアーのバスでの一件で、指名が掛ったというのであった。あの日の作文が役だったのかも。

この付き添い旅行は、大変だったが素晴らしい経験だった。このツアーは添乗員付きではないので、予定表通りに自分で行かなければならないから、初めての外国人には大変なことだろうと容易に想像できた。

10月12日から17日まで6日間、東京から出来たてほやほやの東海道新幹線で新大阪へ。1泊してから、翌日は、ホテルからJTBバスで京都を回って、神戸へ行くのだ。

バスガイドは全て英語で説明。2組のフランス人は英語が判るのだが、僕に「今何という説明かと頻繁に聞いてくる。全部フランス語に出来ないので概略を話したりした。マダム達は知識欲旺盛で、マダムプーランは、「JAPON」というフランス語のガイドブックを頻りに見ている。お客は英語圏ばかりであったからかもしれないが、京都駅に着いた時、神戸までは、このバスをキャンセルして、その分タクシーに変えたいと言い出した。そこで、僕は京都駅のJTBに駆け込んで、東京のJTBへ電話をかけて事情を説明して何とか交渉成立した。それから神戸にバスが着く時間を計算して雇ったハイヤーに乗り込んで、残りの京都見学を終えて無事神戸に着いた。そこから、関西汽船で、日本の地中海である美しい瀬戸内海の風景を堪能しつつ一晩かけて九州別府へ着いたのだ。帰りは山陽本線で広島へ到着して、ホテルに荷を下した。宮島見学するときに、マダムが、ホテルでなく旅館に泊まりたいと言い出した。そうだ、やはり旅館を味わってほしいと僕も思って、交渉の末、宮島の有名な旅館に変えてもらった。

但し、朝食はご飯にみそ汁、干物が駄目なマダムにはパンとコーヒーを注文したが、宿ではパンが無かったので、宿のご主人がパンを探しに行ってくれたというオマケつきであったが、彼らには、その宿のおもてなしに、宮島の景観と共に心に残ったに違いない。この旅を終えた2組の夫婦は、帰国前に、岐阜を訪ねている。それは、事務所から、岐阜までの切符を買って、駅まで送ってくれという伝言を聞いたから判った。自分達でバンバンしたのだ。

帰国の途に就くとき、ボネ夫妻が、お別れだから船の部屋に来てという伝言があった。客船内は日本の領土でないので許可証が無ければ入れない。事務所を通じて許可証が届き、マダム達の部屋に招かれた。ロシアの黒パンとちょっとした食事を前に、マダムの要請で「さくら・さくら」を歌った。ご夫妻は自分の子供のようだと言って、フランスでの再会を約束して、涙のハグをして、無事、僕のオリンピック体験が終わった。

この貴重な2週間は、バスでの送迎や都内ツアーのガイド役や旅行の付き添いなどが仕事だったから、開会式や閉会式は無論、競技など何も知らない内に終わったが、得難い経験は何時までも心に残るものだ。

さて、本題のプルーストの後に書いた「或いは追憶を紡いで5年後へ」が、僕にとって大切だと思うのだ。クーベルタン男爵ではないが、何故オリンピックをやるのか、世界中から来る人々が、一緒に平和と喜びを感じること。ハードの凄さや技術の見事さだけではなく、客人に、何かを残せる5年後になることを願うのは、僕だけではないと思うのだが……

 

それから、前号8月号の南仏の取材記で触れた、8年後1972年、九州までアテンドした2組の仏人夫妻に約束通り逢いに、アエロフロートでコペンハーゲンからぐるりと回って南仏マルセイユに辿り着いたのだった。

7年後の再会時の・ご夫妻(1972年)


洒落おやじ・工藤 毅志(2015年・8月30日)