NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

2016年3月号

洒落おやじの青春取材記 16 工藤 毅志

芦田 多恵    ファッションデザイナー

ファッションへの熱い愛

芦田多恵
芦田多恵

先月3月に、2016秋冬のファッションショーが終わり、一区切りついた4月26日に、デザイナー、芦田多恵さんをオフィスに訪ねた。それは、以前から、多恵さんに話を伺いたいとの思いがあった。日本のファッション史に残る「JUN ASHIDA・芦田家」にあって、「ミス アシダ」から「タエ アシダ」へと素晴らしいブランドへと成長させた多恵さん。この秋にデビュー25周年を迎える年でもあり、その思いとこれからを伺いたかったからである。芦田淳氏が1953年にデビューし、1963年にメゾンを開いてから、ファッショナブルなプレタポルテ(既製服)は瞬く間に、美意識の高い女性たちを虜にしていった。こうした芦田家で、多恵さんが誕生したのは、高度成長期に向かう昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年だった。僕は、この時代の申し子みたいだと思い、ファッションデザイナーのご夫妻に育てられて、どんな英才教育を受けられたか、と「多恵さんの子供の頃はどうでしたか?」と尋ねると、「絵を描くことが大好きで絵ばかりを描いていました。紙とハサミがあれば、工作造りをしていました。上に姉がおりましたから、そういう意味では、子供の頃から自由な次女的生活でしたね。」なるほど、現在の多恵さんの素地はきっと、その頃の自由さが生かされたに違いない。

2016年・秋冬ショウ

「ご両親から特にファッションの方へ進めというように言われたことは?」

「両親は最初、姉の方にその思いはあったと思いますが、母が、私が就寝時に、毎回、耳元で〝早くママのお手伝いをしてね“と呪文のように言われたのが、耳に残っていたかもしれませんけど(笑)」

「東洋英和女学院小学部、中学部を卒業してから、高校はスイスのル・ローゼイ高校に行きました、此処での経験も楽しかったですね。」

「大学は、フランスではなく、アメリカのロードアイランド造形大学の卒業ですね。」

「そうです。父はフランスに行って欲しかったようですが、英語と仏語では、英語の方が出来たのが理由の一つですが、その頃はちょっと尖がってましたし(笑)、自分で行ってみたいとそこに決めたのです。ロードアイランド造形大学の隣にブラウン大学があって、個性的な学生が多く、大学生活も色々な人と出逢いもあって、とても有意義でした。」

そして、この大学のアパレルデザイン科を卒業後、多恵さんは1988年(昭和63年)株式会社「ジュンアシダ」に入社した。経歴の中に、著名なフランスのファッションデザイナー、クリスチャン・ラクロワで研修、とあった。その当時、クリスチャン・ラクロワはオートクチュールで、一躍脚光を浴びたデザイナーとして話題になり、僕もインタビューをしたことがあったので、ラクロワのことを聞いてみた。芦田家とラクロワの関係は、その10年前、1977年から10年間、ラクロワが芦田淳氏の下で研修を積んだという。

ラクロワと芦田夫妻
ラクロワと芦田夫妻

「それで最初、ラクロワがパリのトレンドのデッサンを描いたのを見た両親が、そのデッサン画を元に、自分が使用している日本とイタリアの上質な生地を使って、綺麗な作品に仕上げたのです。そのことで、ラクロワは大変感動して、それ以来、母を日本のママと呼んでいました。」と多恵さんが説明してくれた。

「なるほど、素晴らしい話ですね。芦田夫妻がラクロワを育て、ラクロワのオートクチュールで多恵さんが研修されたという巡り合わせ。モノ作りの原点みたいな話ですね。」「ラクロワでのオートクチュールの研修も素晴らしかった。」と多恵さん。

それから3年後、平成3年(1991年)第1回「ミス アシダ コレクション」を発表し、本格的にデビューして、年2回東京コレクションに参加し、当時のヤング女性誌「ミス家庭画報」、「ヴァンサンカン」、「クラッシー」等で、ジャストターゲットとして、女性誌誌上を飾ったのだった。多恵さんはその後も年2回のコレクションをこなしながら、女子高生やホテルの制服デザインから日本人宇宙旅行士の山崎直子さんの船内服デザインなども手掛けて、その活躍ぶりは、枚挙に暇がないくらいだ。

僕が多恵さんにお世話になったのは、1996年12月7日に、九州・長崎にあるハウステンボス内の「ホテルヨーロッパ」で、「ラセーヌサロン ジュンアシダ97春夏コレクション」を開催させていただいた時だ。通常、東京でしか見られないショーに、読者も大喜びしたのが今も忘れられない思い出だ。

そして、2013年(平成25年)、その前年10月のコレクションで、「TAE ASHIDA」を発表して、その素晴らしさに、「第54回FEC特別賞」を受賞したのだ。僕はFEC賞当然と思っていたので、その授賞式は、身内のように嬉しかった。

多恵さんの忙しい時間の中で1時間の約束は、懐かしい話で盛り上がってしまい、最後にアシダメゾンのこれから、を尋ねてみた。

「ファッションは、時代を映す鏡と言われるように変わっていくものですが、客観的に見て一貫性のあるモノ創りが大切だと思うのです。素材、縫製、デザイン全てにわたって、丁寧に作り上げていくこと、それが原点です。JUN ASHIDAが今まで作り上げてきた、お客様がこの服を着て、本当に良かったと喜んでくださるという服作りを受け継いでいくことです。」この言葉を聞いて、僕はパリのオートクチュールメゾンを以前、取材で訪ねた時のお針子さんの姿を思い出した。丁寧なモノ作りだ。

東日本大震災を被った宮城県南三陸町の皆さんとの交流

そして、読者の皆さんも新聞、雑誌などでもうご存じと思うが、2013年、東日本大震災で、甚大な被害を被った宮城県南三陸町の長期的な復興支援を目的として、現地の縫製技術者と多恵さんがコラボレートして、アシダさんで使っている上質な素材で、ひとつひとつ丁寧な手仕事で、キュートなマスコット付きキーフォルダーのチャーム「MINA-TAN CHARM(ミナ・タンチャーム)のプロジェクトを立ち上げて、多恵さんとスタッフが随時、現地に赴き、技術指導に当たっているのも、多恵さんのモノ作りの原点を地で行くような活動の一つとして嬉しく思い、多恵さんのたゆまぬ活動が、また新たなエポックとして、ファッション史に加わることを願いながら、超過したインタビュー時間を詫びて、オフィスを後にした。

工藤毅志 2016年4月30日・記