NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

2016年3月号

洒落おやじの青春取材記 13 工藤 毅志

リシャール・コラス・シャネル・1

返歌・セギュレへと、道を再び訪ねれば、優しい時の香り漂う

Sur le Chemin de SEGURET(南仏セギュレへの道)

2016年2月18日から戻ること四半世紀前の1990年の4月まで遡る。

僕は、当時の女性誌「ラセーヌ」のパリ取材で4月6日から1週間、パリに滞在した後、シャネルで、香水化粧品本部長として、指揮を執っていたリシャール・コラス氏からの招待を受けて、帰国前に南仏プロヴァンスの玄関口、マルセイユ空港に降り立った。

コラス氏は、車の助手席へ僕を案内してから、氏の実家でご両親がお住まいのセギュレ村に車を走らせた。

プロヴァンス地方と言えば、フランスを旅する旅行者にとっては、美しい場所の代名詞といっても過言ではない。僕は、セギュレという場所は知らなかったが、後で調べてみると、南仏プロヴァンスの美しい村10選に選ばれている。

プロヴァンス好きな僕にとっては、こんなに嬉しいことはなかった。そして、コラスさんの運転する助手席で、子供のように車窓からの景観に目をやりながら、二人で色々な話をしたのだった。

僕はコラスさんの生い立ちや仕事のこと等、好奇心から、不躾な質問も多くしたと思う。

特に彼の口から出る流暢な日本語や日本文化の知識など、僕はどう対応していいか判らない程だった。

そんな会話の中で、18歳の時に、初めて日本に訪れた時のこと、コラスさんの父上がエールフランス航空のパイロットであり、日本へのフライトで日本を知っていたこともあって、勧められて、来ることにしたこと、日本滞在時は、18歳のフランス青年に親切で、忽ち日本が好きになって、フランス・パリに戻ってから、パリ大学東洋語学部で日本語を学び、初来日から3年でパリ大学を卒業して直ぐに日本に舞い戻り、フランス大使館勤務を経て、現在に至った経緯等、聞けば聞くほど面白い話の連続だった。

僕への質問に対して、今度は僕が拙いフランス語で応えようと努力はしてみたものの、流暢な日本語での質問に、今思えば、フランス語の授業を受けているような感じだったろうと赤面してしまう。只、コラスさんは、僕のフランス語の発音が「パリジャンみたいだ」と褒めてくれたのが唯一の救いだった。それは僕が大学生の時に東京の日仏学院に通っていた時の先生・ムッシュウ ゴンチエが発音を直してくれたことなどを話しながら、何故、相手の国の言葉を覚えられるのかは、「その国の文化が好きになったから」ということで一致した。

リシャール青年は、本当に日本に恋したんだな、と震えるような嬉しさを感じた。

もう大分、セギュレ村に近づき、それぞれの夢の話になった時、「今はシャネルという素晴らしい会社で働いているけれど、何時か、小説を書きたい。写真も好きだし、日本に最初に来た理由一つは、ニコンを買うため」と言って笑った。

僕は?「大学の時は、芝居をやってみたいと思っていたけど、編集者になったから、自分は物書きになれない代わりに、作家や様々なアーティストや専門家の才能を拝借して、新しいモノを創りたい」というような話をして、コラスさんから背中を押してもらったような気がした。

約1時間、セギュレへ着くまでの間、セギュレへの道は、僕にとっては、青年に戻ったような満ち足りた道だった。

そして、AFパイロットの夢見るような父上と優しい母上に「ようこそ」と迎えられた。

その夜、セギュレの家で、美しい道の夢を見た。

翌日、パイロットの父上が操縦する小型機に、リシャールさんと乗り込んで、マルセイユまで送ってくださり、マルセイユからパリ経由で東京迄、AF機上の人となった。

その2年後、1992年6月7日、パリ取材から再び、コラス夫妻に誘われて、セギュレを訪れ、ご両親と再会して、束の間のヴァカンスを楽しんだ。

そして、僕の大切な青春取材アルバムの1ページとして残している。

 

返歌(かえしうた)「セギュレへと 道をふたたび訪ねれば 優しい時間(トキ)の 香り漂う」

 

 工藤毅志           2016年2月18日 記

 

次号4月号では、リシャール・コラス氏への返歌(かえしうた)エピローグをお届けしようと思っています。