NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

ワインバトラー・ニールのライフワーク Part 50

「形のある世界。物質で溢れる世界の中で」

お百度参りを知ってますか?
お百度参りを知ってますか?

春らしさを感じることができる季節になりました。

実は、先月、3月1日から転勤になりまして箱根の彫刻の森から、千葉県の鋸山の近くにある施設に転勤になりました。施設は山の中腹に東京湾を望む絶景の位置にあります。山の中からいきなり海へ来た!という感じがしていますが、同じ系列のホテルなので実は5~6回は宿泊しています。ここはもう1年以上も支配人が不在でしたので現場を取りまとめる役職者として昨年の12月に内示がありましたので引き受けることになりました。私の実家は実は千葉県の松戸市なのでこちらの方が実家から近いのではとお思いでしょうが、千葉の松戸からこの富津というのは中々どうして交通は不便でありますのでこちらの方がかえって時間がかかります。

ところで、箱根に単身赴任した際は、趣味でありました釣りは一度も行くことができませんでしたが、今度は目の前が海ですから、釣りの趣味は復活するかも知れません。しかしながらゴルフは昼食込みで7.000円以下のところも多いのでゴルフも増えるかもしれません。いずれにしてもお金は懸かりますね。

おそらく単身赴任もここ千葉県の鋸山が最後になるかとは思います。鋸山というところは、訳あって、皆さんには教えることができませんが、不思議で神秘なところであります。ここに赴任したのは何か思惑があるようには感じています。

話は変わりますが、1月に、父が肺がん末期で他界致しました。親不孝者の私は死に目には立ち会うことができませんでしたが、最期は余り苦しまないで亡くなったと聞きました。どうか、少しでも苦しみませんようにと願掛けをしていました。

今回は願掛けということについてお話致します。あるとき、仙人のところで聞いたお話であります。「ある宗教では、肉体はない、物質はない、今、見えているのは幻想のような世界で魂だけが本当の世界である。と教えている宗教があるが、頬っぺたをつねれば痛いし、病気もしたら痛いし苦しいし、肉体はあるではないか!だからそんなウソに騙されてはいけないよ!」と教えてくれました。こういった宗教は、書店で見かける宗教本にもよく書かれているのを見かけます。酷いのになると霊が見えるとか、過去の偉人、キリストや釈迦が肉体に降臨してきたとか。

皆さんも肉体も心もあるのを実感されているでしょうから、肉体も心もあります。そして回りを見回してください。私の前にはこの原稿を書いているパソコンもありますし、デスクの上には仲間と取った写真もあります。窓の外を見れば、心洗われるような海原が広がっています。宜しいでしょうか?そうなんです、この世の中は物質で満ちている世界なんですね。つまり、形がある世界なのです。形がある世界で生きている訳でありますから、これをお読みになられている読者の方がたも、何か願いごとや、祈りたいようなことがあったら、唯々、思うことも大事なのですが、形に表さないとこの世では叶えられません。昔の方はこのことを知っていましたので、誰かが病気になったら、神社(つまりこの世の中を造られた偉大な力=尊敬して神様というお方のところ)に行って、「神様、普段はお参りにも来れないので、お百度参りをしますから(そういう行為を形として行いますから)どうぞ、〇〇さんの病気を助けてください!」と願掛けするのです。何もお参りをしなくても、「神様、私は、3食のうち、一食を100日間、抜きますから、〇〇さんが少しでも食べられる様になってください!」という形に表す願掛けを行うのです。願掛けはご自身で色々考えたことでよろしいわけです。ただ、これを読んで、そうかでは私もやってみようと言って結果が出ない時ももちろんあります。助けたい一心でやることが大事なんですが、人間はやったことの結果をすぐに求めたがるので仕方ありません。大きな病気なら命がけのことをしないとダメかもしれないですね。こういう他人を助けたい、困っている人を見たら助けたいという気持ちを常日ごろからあればよいのですが人生は、家庭の事情もあり、仕事もあり、中々、今を生きることで手一杯で、むつかしい世の中です。しかし善行を行えば、たとえ小さなことでも、何等かの心持ちは軽くなるかと思います。

闇を照らす月闇夜
闇を照らす月闇夜

ここで誤解しないで頂きたいのは、神様のことです。私の家は神道なので、神様という言葉も使いますが、何も、宗教に勧誘したり、誰誰さんの本を読めともいいません。遠い遠い昔に、神様はご自身の身を形に表していたことがあるのでしょう。その証拠に世界各地で神様のお姿が絵画や壁画で残っています。今は、神様はお姿を現していません。神様というのは姿形は今はありません。この海から登る太陽のごとく、闇夜を照らす月のごとく、満ちていく潮や引いていく潮のこの自然界のありて満ちて溢れている働きを、この世の中をうごかしている偉大な力そのもの又は動かしている方を尊敬申し上げて神様というのです。と仙人は教えてくれました。

ある知り合いの方と話しをしていましたら、「私はキリスト教です」とおっしゃっていました。私は「それは良いことです」と言いました。信仰はとても大事なことであり、信仰は進行であり前に前に進んでいくことです。キリスト教の本も読んだことがありますが、良く「天なる父よ!」という言葉を目にしたり耳にしたりしますね。この天なる父=天にいらっしゃいます神様なのではないでしょうか?モーゼも釈迦もキリストも、つまり救世主と呼ばれる方達は、自分たちに祈りなさいとは一言も言ってはいないのではないでしょうか?この形ある世界に、身をもってつまり形となって現れ、形のある世界の生き方、通り方を、その時代を生きている方達に、時代に合うように教えてくれたのではないのでしょうか?旧約聖書も新約聖書も詳しく目を通したわけではありませんが、キリストが直筆で残したものでは無く、キリストが入滅してから、お弟子さん達が、そういえば生前キリスト様はこんな事いっていた、こんな奇跡を起こしたあるとかを、表現をむつかしく著書として現したものなので、単純に読んでいても良く分からないところが私にはあります。でもバイブルを礎に一生懸命、自らを律し、人生を生きている素晴らしい方達も実際には多くいらっしゃるのです。反して、現代で起きている戦争は、人種や宗教の対立が根底にありますが、バイブルには戦争してよいなどと何処にも記されていませんね。でも現実、戦争は起きていますしテロも起きています。つまりプロテスタントとかカトリックとか言っても自分が信じるものが正しくてそれ以外は間違っているという偏見がある限り収束はしません。

話を元に戻しますが、形のある世界なので、又物質が充満している世界なので、願うなら形に表す行為をした方がよいのです。願を掛けるとはそういうことになる訳ですね。

話は変わりますが、私の父親は普段はとても物静かな人でした。映画の配給会社に定年まで勤めあげましたが、一週間の半分は出張ばかりで家にはいませんでした。又昭和の戦時中に疎開も経験しており高度経済成長を時の流れとともに、一生懸命駆け抜けた働きものだったようです。しかし私は、父親から、人生に対しての向き合い方、考え方や精神論みたいなことは殆ど教えてもらったことはありませんでした。母親からもそうでした。両親は、当時を生きていくことが精いっぱいで、人に教えるという教育を知りませんというかそういった勉強は出来ていないようでした。したがって私もこれを記していていますが偉そうな教育は受けていません。しかし30歳の時に仙人の元で、この世の中の通り方、人生の考え方は学ばせていただけましたので、今、こうして何とか教えて頂いたことを基に記すことができるわけです。

形のある世界で、私もあなた様も体という形を持って生きています。生きているのですから、息をしている訳ですね。幸い私の父は、肺がんで息を引き取りましたが、最期はそんなに苦しまなかった様です。私のその時の願掛けは、普段、職場で紙コップを物凄い量を使う(無駄遣いする)ので、紙コップは使わないので、どうか、神様、せめて臨終間際は苦しまない様にして上げてくださいとお願いしていました。今後も紙コップも無駄に使わない様にするつもりです。紙を大事にする=神様の思惑を慮るという意味で。

お願い事は何でもよいのです。その時できることで。

無き、父親に捧ぐ。

by ニール