NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

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ブルガリと私の回想録 4

ジャパン社トップにとって本社直属ボスとの相性がすべて

 

― 眼光鋭く、理論家の最初のボスから難題が。さて、どうする? ―

「街に出て来店を呼びかけるチラシを配れ」

旧東京本店(’91.9.20開店、’09.12.28閉鎖)
旧東京本店(’91.9.20開店、’09.12.28閉鎖)

ジャパン社設立の’91年の秋に業界ではアジア最大級、建築技術の粋を集めた東京店がオープンしましたが、「知る人ぞ知る」ブランドとしてのブルガリが理想的な立地条件として決めたのが、いまだに江戸時代の大名屋敷のたたずまいを残す紀尾井町。あえてショッピングエリアを避けた地で、エレガントなオープン披露をという本社方針で大きく宣伝することをせず、そのうえローマ本店と同じようにドアを閉ざしたショップでは、その存在自身が顧客に十分に伝わっていないこともあったので簡単に顧客が来るはずもなく、入店者ゼロという日々が続いたものです。

痺れを切らした本社ジュエリー・ウオッチ部門トップのジャンルカ・ブロゼッティが電話で言ってきた言葉がこれでした。

こちらも安閑と惰眠を貪っていたわけでは決してなく、少ない予算をやり繰りし、毎月のようにショップ二階のラウンジで店内パーティを催して顧客を招き、しかるべき顧客予備軍に店の認知を呼びかけるなど手を尽くしていたわけですが、さすがにこれには参りました。
ショップの売上げは予想をはるかに下回っており、ボスの立場は痛いほど分かりますが、ブルガリは最高のブランドとする研修での教えと違う。一方、今までの経験から、直属ボスとはあまりギクシャクしたくない。ジレンマもいいところでしたが、あれこれ悩んだ末に決めたのが<正面突破>でした。

この根拠は、私へのゼネラル・マネジャー(GM)研修と、最初の「ブルガリ大学」(前稿)におけるジャンルカのキャラクターに対する自身の判断です。

◇本社でのGM研修をすべて仕切ったボス、毎回の鋭いレビュー

ボスと筆者
ボスと筆者

91年2月4日にジャパン社が設立されたなんと翌日から1ヶ月、イタリアでゼネラル・マネジャー(GM)研修がありました。ローマ本社で商品、生産、企画、マーケティング、財経、人総は勿論、ローマ本店で<セールス>に密着しての販売の体験から、金庫室、ウィンドウのデコレーションなど。更にはミラノへ移動してショップとマーケティング・エージェントでの数日。まさに<鉄は熱いうちに打て>の格言通り、新設子会社たるジャパン社トップを雑念が入る前に全て基本から研修させると言う趣旨だったのでしょう。

 これを全て仕切ったのが直属ボスのジャンルカ。
とにかく異次元の世界の人間に「ブルガリ」というものを教え込むわけで、さぞ大変だったことでしょうが、非常に強く感じたのは第3稿で述べた「ファミリー」意識。それにブルガリにとって二番目の現地法人の「GM」に対する本社幹部・社員の敬意に満ちた対応でした。

 ローマ・フィウミチーノ空港には社用車のメルセデスの出迎え。(ブルガリの社用車は全て紺色のメルセデスSクラスと決まっていました。)初日の原石の講習の後は原料部長の自宅へ招待されご家族と夕食。それから毎日変わる部署での講習でも常に上位者に対する扱い。商社出向の立場のサラリーマン気分が徐々に消えて、責任の重さがヒシヒシとのしかかってきたことを覚えています。

ボスのご両親と。イタリアの方は年に関係なくオシャレ!
ボスのご両親と。イタリアの方は年に関係なくオシャレ!

更にジャンルカは私の2度目の休日にサープライズを用意していました。
彼の故郷ペルージャへの一日ドライブです。彼自らBMWのハンドルを握って案内してくれ、お昼はご健在のご両親に紹介され共に食事。トルジャーノのワインヤードを回ったりしながら最後はアッシジの世界遺産・聖フランチェスコ教会へ。丁度ミサがあり、小雨の中、荘厳さがより一層伝わってきました。はからずも’97年9月26日の当地地震でこのフレスコ壁画や円天井が崩落(今は完全修復)、このドライブがのちに改めて強く印象づけられたことでした。

 

同教会でのミサ
同教会でのミサ

このような予想もしなかった別格待遇の研修でしたが、各コースのレビューは厳しいものがありました。鋭い目線で、質問したり、意見を述べさせたりする一方、こちらの質問にはまさに理論整然と返答するジャンルカ。この後の日本での「ブルガリ大学」研修でもこの態度は変わらずですが、オフでは一変、別人のように実に人間 味溢れる姿を見せてくれます。

アッシジの聖フランチェスコ教会で筆者
アッシジの聖フランチェスコ教会で筆者

この姿勢を身近に見て、このボスには下手なごまかしや言い訳は通用しない、とことん正論で押さねばならない、と強く心に決めたことでした。

◇提案を拒否、電話口で大激論。結果は「雨のち晴れ」

正面突破とハラをくくった以上はとにかく理論に沿う資料を準備しました。
日本のブランド市場の成長性から始まり、競合ブランド状況、東京店の存在感などなど、必要に応じて数字なども並べ、しばらくは毎日のように電話で激論の繰り返し。最終的に何とかこれを撤回させることに成功しました。

その後努力の甲斐あって東京店の認知度も徐々に上がり、来店顧客も増えはじめましたが、面白いもので、これを契機にジャンルカとのコミュニケーションが取りやすくなったものです。
多少の抵抗があっても正論を述べることの大事さを痛感した出来事でした。

以後の稿でまた紹介する機会もありましょうが、二番目のボスや同僚の地域総支配人たちとの戦略会議で、彼らが喋っているうちに興奮し、掴み掛らんばかりに激論しながらも、会議が終わると実に和やかに話をするのに、はじめは戸惑いながらもすぐに慣れてきたのは、やはり最初のジャンルカとの体験があってこそと言えましょう。

ペルージャの中心都市アッシジ 丘陵地帯の斜面に展開 (絵葉書)
ペルージャの中心都市アッシジ 丘陵地帯の斜面に展開 (絵葉書)

◇この後日談

ジャンルカは94年春にジャパン社のV字回復を見通して、グループの新設パフューム部門に異動しましたが、つい最近、思いがけぬ後日談がありました。
 既にブルガリを離れ、あるファッション・トップブランドのCEOに就任した氏のインタビューを取るべく、知己の日本誌編集長が昨秋イタリアを訪ねたとき、いきなり私の名前とこの時の話が出て、<この時のやりとりを通じて日本や日本市場に対する十分な認識が出来た、当時自分がボスであったが日本に関しては彼がボスと思っている>という次第。お互いの関係も全く知らずに突然私の名前が出たことで編集長が驚いたと帰国して連絡がありましたが、ホンネでのやり取りの重さとともに、人の縁の不思議さを再認識したことです。
  <続く>

                   深 江  賢(ふかえ たかし)