NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

深江賢に聞く~回顧録スペシャル~
洒落おやじの青春取材記 工藤
特集記事 ANA

ブルガリと私の回想録 第48回

「良き時代」のレビュー(前編)

-波乱万丈のジャパン社13年を4期に分析-

  セブンシーズクラブ(当時)主催・ブルガリジャパン協賛、阪神大震災救援募金チャリティコンサートでの挨拶(同誌95・5月号より)
セブンシーズクラブ(当時)主催・ブルガリジャパン協賛、阪神大震災救援募金チャリティコンサートでの挨拶(同誌95・5月号より)

社員たちの築き上げた歴史にスポットライト

1884年の創業以来、究極のラグジュアリー・ブランドの姿を求めてきた数少ないファミリー企業・ブルガリは2011年のLVMHグループ参画(吸収統合)によりブランド名は同じでも全く異質の企業に生まれ変わったと言えましょう。

 

1985年に27歳の若さで4代目社長に就任したフランチェスコ・トラーパニは、それまでのローマ本店1店体制による“知る人ぞ知る”超ラグジュアリーな存在であったブルガリの世界への拡大戦略に転じ、91年にアメリカに次ぐ2社目の現地法人を日本に設立。その後、商品と販路の多様化戦略により世界的な認知度が一挙に上がり大ブレイク。彼の指揮のもと、ラグジュアリー企業として商材的に、人材的に、理想の姿を追求しつづけ、90年代後半から21世紀初頭にかけて、日本を軸として時代の寵児となりました。

 

世界的なラグジュアリー・ブランドとしてはブランドそのものの存在が全てであり、各地のローカル会社の活動はそのブランド価値を築き上げるいわば道具にすぎないのは当然です。商品企画、生産、マーケティングなど、一部の例外はあっても全て本社主導。ローカル法人会社の歴史というものに存在感は無いわけですが、ブルガリ・ジャパン社の場合は、私の在任中の13年に関して申せば、各稿の回想録で披露した色々なエピソードのように、波乱万丈の経過の中で社員たちのそれぞれの歴史が凝縮していました。

 

ここに改めて、ブルガリというブランドがスポットライトを浴び、「ブルガリ・ファミリーの一員」という“合言葉”のもと、社員たちが築き上げた「良き時代」を時系列にレビューしたいと思います。

 

雌伏期(1991~93年)、莫大な先行投資、本社と日本側の評価のちがい

同、宮中雅楽楽士・東儀秀樹コンサート(同)
同、宮中雅楽楽士・東儀秀樹コンサート(同)

あるネット資料による、86年を底として始まった国内需要の拡大テンポ、いわゆるバブル景気は91年2月をピークとして急激に減速し、平成不況という長いトンネルに入ったとされています。

 

ブルガリの日本法人が設立されたのが奇しくも91年2月4日。(回想録43

バブルの最中に作られたブルガリ・アオイ・伊藤忠による合弁事業計画は当然ながら需要の拡大基調を読み込み済み。この時点では誰一人ピークが“今”であると読めるはずはなく、湾岸戦争勃発という情勢の中で、その経営計画に基づいてジャパン社は勇躍船出したわけです。

 

当然のようにジャパン社の初年度決算は売上のプラス計画に対しマイナス。次年92度はさらに悪化して前年比売上86%、3年目93年は同90%。3期連続大幅欠損でこの時点で債務超過となり、いわば更生保護観察身分。日本側2社からはあと1年赤字が続くと会社解散と脅かされる始末。ただ、代表者として我ながら冷静を保てたのは、実はブルガリ本社の強力な後ろ盾の故でした。

 

ブルガリジャパン業績の指数推移
ブルガリジャパン業績の指数推移


初年度から9月旧東京店(回想録5)への売上計画60%相当額の大投資、同月皇族ご臨席を仰いだ豪華ジュエリー発表会の実施(回想録2)、92年の旧福岡店の開店など、アジア展開の拠点と位置付けた日本法人の大幅損失はトラーパニには既に読み込み済みだったのでしょう。日本側2社とは全く違い、予想もしなかった「良くやった」という評価を受けたのです。(回想録1

 

この時期のトラーパニは30才台はじめ。まさに意気軒高でした。

92年のグループ幹部会で「20世紀末にスケール10倍」と宣言。商品多様化と販路拡大という具体策でマユツバ気味で聞く古株たちの心配を一蹴。併せてグループ社員求心力の基盤となるグループ・ヴィジョン「我々は世界で最もプレステージの高いジュエラ―と認められるようになりたい」を発表。(回想録8)それもこれも、バブル崩壊で奈落の底に向かう日本に比し、欧米では既に回復の兆しが見え始めており、ブルガリも93年グループ決算では前年比142%と89年レベルへの復活が背景にあり、強気の攻めに転じようとしていました。

 

ジャパン社では販路拡大方針に沿って百貨店の髙島屋と連携。不慣れな百貨店商慣習に戸惑いながら外商活動を開始。93年12月には同京都店にイン・ショップをオープン。これがトラーパニの世紀末宣言を支え、グループ発展の中心となる30数店に及ぶインショップ・ネットワークの記念すべき第1号でした。

 

反騰期(94~96年)、すべてに転機、V字上昇へ。 

今時珍しい社員全員の年初写真(93・1)

世は不況の嵐。94年4月19日には円高が1ドル79.75円と進み、8月18日には東証株式が18,000円台まで下落。93年8月には38年ぶりの政権交代で細川非自民連立政権が誕生。94年6月の松本サリン事件、95年1月の阪神淡路大地震、同3月のオウムによる地下鉄サリン事件と暗い事件が続き、鬱積した庶民不満が爆発したような形で東京・大阪でタレント知事が選出されました。

 

この期のブルガリの最大の転機は何といっても95年7月のミラノ・ロンドン証券市場への上場です。ファミリー過半数保持とはいえ、株式を公開した意義はブランド価値にとって計り知れない大きなものがありました。

 

併せて、人材面に大きな変化がありました。

まずは93年初めに宝飾時計部門で6エリア制が敷かれ、その1つ、北太平洋総支配人という本部ポストを兼務していた私の94年1月1日付の転籍。93年半ばの意思表示以来、家族を除く周囲の猛反対を押し切った私の新たな人生の挑戦をトラーパニ始め本社が真正面から受け止めてくれたのは嬉しく、またジャパン社内部でも空気が代わるのを肌で感じたことでした。

 

本社では93年陽気で豪快なマッシモ・マッキが部門長に着任。94年、95年とインターナショナル・コンベンションが開催され、グループ社員間のコミュニケーションが一挙に向上。(回想録11)日本でもマッキ承認の下、同じ趣旨でLACと称する社員全員2班に分けての研修旅行を96年に実施(回想録15)、以降6年に亘りこれが続きます。また部門の戦略会議としてのエリア総支配人会議が94年9月に初めて招集され、それ以降マッキの在任中、年2回、各エリア持ち回りで合わせて13回。トップ同士の強い絆のベースとなります。(回想録10)

一方、人材部門担当のフラヴィア・スペーナが世界のグループショップを歴訪、社員すべてとの面談を開始。以後毎年春の恒例行事となり、本社を身近に感じ、「ブルガリ・ファミリーの一員」をさらに意識できるようになったものでした。トラーパニの世紀末宣言は95年に「ヴィジョン2000」と表現を変え、人材教育、育成面にも大きな投資を実行。コンサルティング企業ODIとタイアップし、役員から始まって、総支配人からショップスタッフの各レベルでの研修が続き、人材と企業の更なる質の向上への挑戦が始まります。

 

コンベンション効果でアテネ店訪問(95.4)
コンベンション効果でアテネ店訪問(95.4)

商品の多様化については、宝飾時計部門長であったジャンルカ・ブロゼッティを投入した92年の香水部門が軌道に乗り始め、94年にはジュエリー新ラインのチャンドラ、96年にはシルク・スカーフを披露。広告も92年にメタモルフォゼ採用で柔らかくイメージチェンジ(回想録40)、次期に弾みをつけました。

 

ジャパン社では営業部をリーティル部と外商部に分割。95年3月大阪店、96年2月横浜店、3月日本橋本店、10月新宿店と立て続けにインショップをオープンした髙島屋との取り組みは前者が、外商部は都心のみならず地方の百貨店まで活動範囲を広げ始めました。

本社から矢の催促をうけていた空席のマーケティングのトップに、私の94年転籍にタイミングを合わせたかのように人材を獲得、その提案による電通との契約でマーケティングが一挙に開花します。トラーパニのバックアップで、過去はおろか、それ以降も例を見ないファミリー限りという鉄則を唯一破って、ジャパン社代表のメディア露出の許可を得、PR活動が活発化。チャリティ・イベントへの積極的協賛、毎年12月シーズン恒例となる日経紙上フルページの私と著名ゲストとの対談広告などなど、局面が大きく転換します。(回想録9

 

かくして、平成不況と称される中、ジャパン社の94年業績は6月より急反騰し前年比売上146%、単年度黒字達成。95年は累積損一掃。以降10年間連続で前年比売上平均125%という右肩上がりを継続する起点となり、怒涛の躍進期に向かいます。(続く)

 

20163

 

深 江  賢 (ふかえ たかし)