ブルガリと私の回想録 9
ブルガリブランドの認知度 0から100までの軌跡
―主導権をめぐってイタリア本社のマーケ部門と大バトル―
ブルガリはヨーグルト屋か?
「今、ブルガリで仕事をしています」
「あのヨーグルトの・・・」
「いえ、イタリアの宝飾です」
「ああ、ブルガリアの、ね」
‘91年にジャパン社が設立され、私がその代表取締役専務という立場に就任して以来、名刺を交換したり、自己紹介したりするときに、漫才のやりとりのようなこんな会話が日常茶飯事のように交わされたものでした。
これが2、3年ほど続いたでしょうか。はじめのうちこそ、このような反応に真っ正直にブルガリの説明をしていたのですが、そのうちに良い手をあみだしました。
「まあ、家に帰ってお嬢さんか、息子さんに聞いてごらん」と言うことにしたのです。効果はテキメン。次に会った時には見事にちがった反応が返ってきたものですが、発足当時、世間でのブルガリの認知度がなんと低かったことか。
マーケ・営業と三者タッグ、どん底での転籍と開き直り
人の縁は不思議なものです。
先に当マガジンの永澤主宰に紹介されましたように、'91年にジャパン社設立以来、バブルのあおりを受けて3年連続の赤字決算の中で、私はグループ社長トラーパニの経営姿勢と人物にほれ込み、周囲の猛反対を受けながら、出向といういわば逃げ場のある身分を捨てて転籍を決意、’94年1月1日付でブルガリグループに身分上入社しました。
一方、その間に最も気になっていたのが空席のマーケティング部長でした。
「マーケティングは営業と並ぶ車の両輪だ!!」
前職ジョルジオ・アルマーニ社で、本社のフォルテ担当副社長に、<マーケティングなんて広報宣伝だ>という私の商社的考えを叩き直され、マーケとは何ぞやを理論から実地まで徹底的に教育されたばかりでもあり、イタリア本社のこのポジションの人材確保への強い要求が痛いほど理解できました。
転籍を決意した'93年秋ごろ、はからずも現伊藤忠社長、当時部長の岡藤さんからマーケ部長について打診があり、それが鳥羽秀子。私自身がGAジャパンで採用し、その実力は十分承知しながらも、当時の状況では経費的余裕は全くなく、時期尚早として一旦は断ったのですが、諸般の情勢から最終的に受け入れを決断。正直言って、自分が転籍を決心した以上、いわば 死なばもろとも の心境でした。そして、彼女の入社が奇しくも同年同月の6日。
まだ先が読めない暗黒の時でしたが、実はこの頃には、営業活動を通じて、ブルガリの<強い蠕動>を感じ始めていました。ただ、自ら退路を断ち切ったからには、腹を据えて捨て身でやるしかありません。逆に開き直って、ここから営業・マーケと三者でタッグを組んでの奮迅の活動が始まります。
グループを指揮する本部マーケに 日本を特別扱いにせよと挑む
◇グループを指揮する本部マーケに 日本を特別扱いにせよ と挑む
プレミアムブランドの世界で世界共通のマーケティング戦略をとるのは当たり前の話。ブランドイメージを分散させないためにも本部で徹底して統括するわけで、その権力たるや<絶対>が付くほどの強固なものです。
いくら営業的に日本市場が大事と言っても、ハイ、ソウデスカと簡単に理解してくれるようなマーケ本部ではありませんが、こちらは捨て身ですから怖いもの知らず。蟷螂の斧かと感じつつも、ダメモト精神。まずは日本でのブランド認知度が限りなくゼロに近いという調査結果を振り回すことからはじめました。
そして、二の矢、三の矢、さらに続く矢は数知れず、束になって本部へ。
マーケの増員や費用の増額は勿論のこと、イベント企画などのPR専任の確保、日本の豊かな雑誌事情をバックに本部主導の広告掲載誌の世界枠からの除外と日本市場でのジャパン社主導、圧倒的発行部数や宅配制度を背景に認められていない新聞広告の活用、ジャパン独自のイベント企画創設から、遂にはファミリーしか許されないメディアへの露出をジャパン社代表者に例外として認めよ などなど。
私は、本部のある役員からもう少し穏やかに話したらと忠告されたほど、連日のように本部マーケのトップに電話で食い下がり、一方、鳥羽はイタリア出張の度に携行品の重量オーバーも厭わず、各種要求を裏づけする膨大な資料とサンプルを抱えてその正当性を訴えるといった二面作戦を展開したのです。

運を味方に 無理が通った!
全ての幸運が重なったのでしょう。
果てしなくゼロに近い日本での認知度に仰天した本社トップ。一方、最悪期におけるジャパン社代表である私の移籍に対する好感と渇望していたマーケ部長の就任。
それに世界でも話題になるほどの日本市場でのブランドブームの開花。次々とジャパン社が出店する重点百貨店でのイン・ショップの成功。
トラーパニが高らかに謳いあげた「20世紀末のグループ規模10倍」ヴィジョンにとって日本をバックアップする必然性が続出。更には半年後のジャパン社のV字回復が決定打となり、実にジャパン社の要求が殆ど認められたのです。特にメディアへの露出については私自身もまさかファミリーが認めるとは思っていなかっただけに、驚きと併せて、そのコトの重さを痛感したことでした。
これを機に、ジャパン社の怒涛の進撃が始まり、認知度は数年のうちに100となります。
ジャパン社のあるべき姿
世界におけるブルガリのプレゼンスから、私はジャパン社を次のような存在にしたいと強く思っていました。
*ジャパン社がファッション界は当然として、一般経済界でも認知される
*社員がブルガリで働いている喜びとプライドを持つ
*顧客がブルガリ商品を身につける喜びと楽しさを感じる
*グループの使命である社会貢献(ノブレス オブリージュ)を果たせる立場になる
さて、これらの実現のためにはどうするか?
マーケを先陣に社員全員がそれに向かって進んで行くことになりますが、ハプニング続出の経緯については稿を改めてご紹介したいと思います。(続く)
2012年11月
深 江 賢 (ふかえたかし)