NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

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ブルガリと私の回想録 8

 「20世紀末に グループを10倍のスケールにする!」


― ヴィジョンの明示と遂行はリーダーの要諦と確信 ―

幹部社員を驚かせたグループ会議でのトラーパニ発言

 

ジャパン社が発足した 次の年’925月にローマ本社で開催された初めての 国際幹部会議の冒頭のスピーチで 社長トラーパニのこの言葉にみんな唖然としたものです。時は世界がバブル崩壊で 100年来と言われた不況の真っ最中、勿論ブルガリといえども 例外ではなく、出席の幹部みんなが何となく暗い雰囲気の中で、 これはまさに目の前がパアッと明るくなるような発言でした。

90年代半ばのF.トラーパニ社長
90年代半ばのF.トラーパニ社長

すでに世界進出を目指して、ローマ一店体制から、’70年代にはNY、ジュネーブ、モンテカルロ、パリと展開し、トラーパニが社長に就任した85年以降、東京、香港をはじめとしたアジアや、ミラノ、ミュンヘンなど欧州要地、北米のビバリーヒルズなどに矢継ぎ早にショップを構え、更にはアメリカ会社に次ぐ二つ目の現地法人を 日本に設立して着実に世界戦略は進んでいたわけですが、まだ幹部の殆どは30過ぎの若い新社長の手腕に 疑問符をつけていたのが正直なところなので、 「明るい話は大歓迎、大風呂敷はいいことだ」 的な感覚で この発言を聞いたものです。

 

ところが、これには多様化と投資の拡大という本気の具体策が続きました。多様化には二面あり、一つは扱い商品群の多様化ともう一つは販路の拡大。前者は銀製品・ジュエリー・時計以外の分野への進出と共に、ジュエリー・時計アイテムの拡大。後者は単独路面店に固執せず、有力小売業、即ち百貨店などのイン・ショップを活用するというもので、そのための投資は厭わないと聞いて、保守的な幹部たちが ひょっとしたら、と姿勢を正し始めたのでした。

 

更に、これにダメを押したのが、グループ内での英語の公用語化宣言。

 

この時トラーパニはイタリア語でスピーチしており、 私には特別に英語への通訳が横についたのですが、  その次の年からは本人も見事な英語でスピーチし率先垂範。

 

これにはタカをくくっていたイタリア人中堅幹部も重いお尻を上げざるを得ず、 勿論会社もいろいろ援助しましたが、 数年の中には全員が英語をマスターしたものです。

 

 

◇文章化されたグループヴィジョンをジャパン社経営の支柱に

グループがバブルの影響から脱し始めた’94年になり、先の幹部会議でトラーパニがぶち上げた「世紀末規模10倍目標」を精神的な文章化する作業がマーケティングを中心にすすみ、以下のように纏められ世界に伝達されました。「我々は世界で最もプレステージの高いジュエラーと認められるようになりたい」折しも設立以来の苦境から脱する兆しの見えていたジャパン社にとって、これは実にタイミングの良いグループヴィジョンの設定でした。

3社の合弁事業としての設立のため、社員は出身の異なる寄り合い所帯。それに別の稿で書きますが、ショップの急拡大による継続的な新規採用。結果的に’90年代後半には社員の95%が途中入社の社員という急成長の中で、いくら口で求心力だの、帰属意識だのと言ってみても、出身背景の異なる社員に統一した価値観を植え込むことは中々難しく感じていた時だったので、正に渡りに舟。これをジャパン社の支柱と置き、この内容、意味を社員に徹底して理解させることにより焦点深度の深い会社意識を持たせることを決心しました。

 

このグループヴィジョンの発表の前にはローマ本社にグループ幹部が呼び集められ、その意味と背景につき十分の説明を受けました。余談ですが、これもブルガリの配慮十分な幹部の処遇策で、例えば本人の異動は勿論ですが、本社幹部の異動や、重要事項のグループ発表などの場合は必ず事前にメールではなくてボスからの電話で連絡がありました。一度などは客と寿司屋にいたところへトラーパニから電話があり、明日の人事発表でボスが昇進するとのこと。

 

8時間の時差があるとはいえ、こちらは夜の遅い時間に出先まで秘書に探させたことに、驚きと同時にその対応に感激したものです。それからはまさに朝礼百回。あらゆる集まりの機会に必ずこのヴィジョンを社員に認識させ、毎月のようにある新規採用者のオリエンテーションでは必ず冒頭の一時間をトップタイムとしてこのヴィジョンについて自ら話をしました。

 

 

曰く、何故「プレステージの高い」か

曰く、何故「ジュエラー」にこだわるのか

曰く、「認められる」とはどういうことか

 

この3点について、 色々な比較や実例を挙げて話を進めると、 この持ち時間がいつもオーバーしては人事の担当にキツくにらまれたものですが、 存在すらロクに知られず、まして内容についても作成者の意図すら理解されずに社長室の額などに納まっている 標準的な会社の企業理念とか社是とかに比べ、 ジャパン社では小粒ながら、 ことヴィジョンに関しては社員の全員が熟知し、内容を完全に理解していたものと自負しています。 これが’90年代後半のジャパン社の大ブレークの基盤として、 ブルガリグループに対する愛着とこのブランドの一員という矜持を社員の中に育んだことは 疑いの無い事実で、如何にヴィジョンとその徹底が重要か痛感した次第です。

◇大風呂敷が現実に 売上高・ショップ数・社員数が10倍を超える

20世紀末、2000年には トラーパニの初めての国際幹部会議での 大風呂敷的発言が現実となりました。

大型の瓶に入った オー・ド・トワレ一 種類だけの発売で、 それを徹底的に露出するというマーケティング戦略の典型のようなやり方で、 瞬く間に知名度と高い評価を得た’92年発売の

香水。’96年のスカーフ、 ネクタイなどのシルク製品。 ’97年のアイウエア、レザー製品。

 

一方、本流のジュエリー、時計も顧客層の多様化に対応、購入しやすい価格ゾーンから高額なものまで広範囲なラインアップ態勢。更には、日本からの要望に応じてブライダル市場に参入。

これに関するエピソードはいずれ別稿で紹介しますが、 実に強力に商品の多様化を押し進め、 市場でのブルガリの存在感は高まりました。

ジャパン社右肩上がりの軌跡 '93年を100とした売上の前年比指数
ジャパン社右肩上がりの軌跡 '93年を100とした売上の前年比指数

商流では単独路面店から百貨店のイン・ショップへ展開。世界のどの国より、百貨店の地位が飛びぬけて高い日本。この戦略の切り替えがジャパン社大躍進を押し進め、ひいてはグループ発展の大きな原動力となりました。

 

ここでは簡単に流し別の稿に譲りますが、ジャパン社においても、売上高、直営ショップ数、社員数がほぼ10倍になりました。

特に、卸やフランチャイズ方式によって売り上げをつくるグループ他国に比し、日本の顧客意識と市場でのブランド価値の維持から、本社の強い要請にも

 

拘わらず頑として卸商売を拒絶。売上の全てを正社員による直営ショップのみで作り、しかもこの間、新規開店で売上を伸ばす安易さを排し、既存店ベースの昨対100%以上の伸長に執拗にこだわった中で、バブルの波をモロにかぶった最初の2年を除き、‘93以降私の退任 の’03年まで、毎年平均 昨対 125%の 右肩上がり

成長を維持できたことは、ヴィジョンを支柱とした社員の結束以外の何物でもないと

今でも確信しています。   

 

( 続く )

 

 

深 江  賢 (ふかえ たかし)