NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

深江賢に聞く~回顧録スペシャル~
洒落おやじの青春取材記 工藤
特集記事 ANA

ブルガリと私の回想録 第43回

同床異夢、合弁事業の難しさと面白さ

― ジャパン法人設立における各社の胸算用を推測 ―

知る人ぞ知る “お札の数え方”まで異なる銀行の伝統

数年ほど前までは、銀行窓口で行員が分厚い札束を扇状に広げて鮮やかな手つきで数える姿をよく見かけたものです。

それが銀行により、お札の指での抑え方に2枚づつとか、4枚づつとか、5枚づつとか、違いがあるとは、銀行関係、もっとハッキリ言えば、合併を経験した銀行関係者以外は、ほとんどの人がご存じないのではないでしょうか。

銀行に就職して最初の難題は、帯封の札束をバラしていかに早く数えるかにあるとか。先輩がストップウオッチ片手に付きっ切りで、何度も、何度もやらされる。それがスケールメリット追求による銀行同士の合併が繰り返される中で、お互いが業務を進める段になって、何の疑念も持たなかったお札の数え方が違う! 伝統の違いを改めて認識させられた瞬間だったとは体験者の話です。

ブランド業界では80年代後半のバブル期を境に、同業者同士の合併ではなく、双方の機能を効率よく発揮するための異業種の組み合わせが登場します。

アルマーニの大成功に続くはずのブルガリ合弁事業の誤算

ブランド界で財閥系商社の後塵を拝し続けていた伊藤忠が、高級ブランド品販売で日の出の勢いの西武百貨店とタッグを組み、「流通と小売の合弁」という提案で激戦の末ついに勝ち取った超大物ジョルジォ・アルマーニ。その大成功の勢いに乗って交渉を進めていたのが日本では無名に近い世界ブランドのブルガリ。ジュエリーや絵画など超高級品が売れる流れの中で、重要取引先でもある株式会社アオイが日本総代理店として87年から扱っていたこともあり、二匹目のドジョウを狙った合弁提案は、東京旗艦店の建設など膨大な投資を必要とする相手の要求などから交渉が意外に手間取り、合意に達したのが90年末。すでにバブルが音を立てて崩れ始めていた時でした。

繊維とはお門違い、ジュエリーの合弁を狙った伊藤忠の胸算用は?

対談を報じる伊藤忠繊維月報紙(99.2)
対談を報じる伊藤忠繊維月報紙(99.2)

伊藤忠がどのような意図を持ってブルガリを狙ったのか?

当時の交渉担当や役員はすでに退任し、またこの事業が思わぬ展開になったこともあり、今となっては本音を聞き出すことは不可能ですが、私なりに過去の経験と色々な実例から推測すれば、その心は「ライセンス」。それも、究極はアパレルのライセンス展開にあったと自信をもって言えましょう。

 

当時商社は売上高最優先の時代。ブランド担当にブランドそのものを育成する意識を期待できる時ではなく、世界的有名ブランドを使って、繊維を中心としたライセンス展開で売上アップに繋げることがベストとされていました。

 

第一次高度成長期における伊藤忠主導のライセンス生産によるマンシングウエア製品はご本家よりもはるかに高級品として、当時の百貨店の特選売り場の稼ぎ頭になるほどの存在。その後もダンヒル、ミラショーンなど、傘下に多くのサブ・ライセンシー網を構築し、販売だけではなく生産まで介入する形で売上高稼ぎに貢献。ブルガリも当然その延長線上にあったはずでした。

 

繊維部門が、ジュエリーを扱う子会社まで持つ他部門を差し置いて、「繊維の担当はブランド扱いのプロである」とブルガリに接触。バブルで高価なジュエリー類が如何に売れているとはいえ、売上高としてはたかが知れています。それを正面から合弁事業として提案したのは、最終的にブルガリ社と良好な関係を構築して、先はライセンス提案というシナリオだったはずです。それは次に述べる合弁会社のシェアが15%未満で、これは全社規模の合弁事業ではなく繊維部門で自由にできる立場をとると共に、このクラスのブランド合弁発表にしては実に地味なものであったというのを見ても明白に読めてきます。

ブルガリの狙う日本市場拡大とアオイの困惑

91年2月に設立されたブルガリジャパン社は、伊藤忠14%、総代理店として独占展開をしていた株式会社アオイが35%、ブルガリが51%という持ち株比率。

 

先行するアオイという会社の性格から、東京・大阪2店舗のみで堅実に事業展開を進め、無理な拡大は不要としていたところへの伊藤忠の合弁提案は、いわば金魚鉢にナマズ。一方ブルガリ側には、他ブランドがバブルに乗じて日本市場で拡大している中で、アオイ任せではカヤの外になりかねないという焦燥感を見透かしたような合弁提案で、こちらは渡りに舟。典型的な同床異夢でした。

交渉相手を軽く見た?日本側2社の思惑外れ

ITC繊維部門幹部との懇親(97.12.淡島ホテルのワインセラーにて)
ITC繊維部門幹部との懇親(97.12.淡島ホテルのワインセラーにて)

日本側は、当時まだ若干30歳という交渉相手のトラーパニ社長をいささか甘く見ていたような気がします。

 

ジャパン社が設立されるや、1か月を待たずして、トラーパニは日本側2社の社長宛に、交渉担当の弁護士にまでコピーを落として公文書を送り、それぞれに確認を求めました。内容はジャパン社代表(当時出向立場の筆者)のブルガリ幹部社員扱いと本社組織への組み込みによる職責の明確化、経営はすべてブルガリの意向を受けて代表者が実行、としたものでした。要は日本側が考えていた経営におけるシェア49%分の発言権は、株主総会限りと明言したわけです。

 

戦後すぐに神戸三宮のガード下店舗で創業し、徐々に高級ブランド品扱いに特化、この業界で西の旗頭として一代で株式会社アオイを築き上げた故酒井春海さんにとって、設立早々から経営計画と逆行して低迷するジャパン社の経営に一切口を挟めないではフラストレーションが溜まるのは当然のこと。そのターゲットは重要取引先としての立場から、代表者を派遣する伊藤忠に、また出向の代表者本人に向かいます。

 

さすが伊藤忠はトラーパニ文書にコミットした以上、春海さんと私の間に立って心強いクッション役でした。一方、当の私は春海さんのお気持ちは痛いほど分かりながらも、望んでこのポジションを得たこともあり、与えられた職務に徹底。当初は「君はどっちの人間や」とまで言われながら、辛抱強く本社の考え方を伝え続けるうちに、ジャパン社常勤取締役酒井千鶴さん(現姓前田、春海さんの長女)の陰になり陽になりの“通訳”もあり、少しづつ雪解けムードに。さらに業績の好転に伴い、長年の業界経験に基づくアドバイスを数々いただくなど、経営的にも有意義な場となりました。

 

94年半ばからのV字回復とその後10年に及ぶ右肩上がりの業績。

トラーパニの先を見据えたヴィジョンとぶれない経営姿勢の下、ライセンスの話など切り出す機会もなく、各社納得のうちに経営は全てブルガリ主導。私の03年社長退任後には、ジャパン社は合弁事業を解消し、ブルガリの完全子会社となったのでした。(続く)

2015年10

深江 賢(ふかえ たかし)