ブルガリと私の回想録 第37回
「数字」が取りもつアメリカ法人仲間との輪
『一夜一夜に人見ごろ』から身についた数と遊ぶ習慣のメリット

質問「阪神タイガース・江川卓の背番号は?」
「バカ言うな!」
野球をかじっている殆んどの人が
「江川はジャイアンツ。野球を知ってるのか!」
とのたまうはず。
ところがドッコイ、江川卓は昭和54年度の阪神タイガースの選手として正式に登録されています。あの<空白の一日>と言われた野球協定の盲点を突いた昭和53年11月21日の巨人の江川との契約。それが問題化し後を引くのを恐れた球団側とその圧力に屈した当時の連盟側が作り上げたシナリオが翌年2月1日付の江川卓と小林繁のトレード。
悲劇の主人公・小林のこのシーズンの大活躍もあらかじめ仕組まれたものと言えば穿ち過ぎでしょうか。結果として54年度選手名簿には江川の名前は阪神と巨人の双方に記載されています。ちなみに江川の阪神での背番号は3。シーズン成績は阪神3位、巨人4位でした。

このほか、プロ野球名球会古株クラスの背番号は当然として、逆に当時の球界では珍しい背番号44の記憶のおかげで、大阪北の新地では思いもかけない恵遇あり、こと話題は豊富。遡ってみると、この数字への興味の源はどうも中学で学んだ √2や√3などの覚え方にあるようで、その後は車のナンバー、電話、口座、会員証などの番号読みと、ついついクセが出て今に至っています。
このトシになって円周率小数点以下34桁の完全記憶など、いやはや。
アメリカ法人のコワモテ、ディック・ローとの出会い

ディック・ロー。ブルガリ・アメリカ法人(以下BCA)の財経担当部長。長身痩躯でコワモテの風貌に加えて、会議では一言も二言も多い硬骨漢。
ディックと初めて出会ったのが91年2月ジャパン社設立後、10月にミラノで開催されたグループ上級職の研修会。第一印象のせいか、初日の昼休みに一人ポツンとしている彼に「マンハッタンに3年いたんだ」と声をかけました。未知の者同士の話題は自己紹介的なことから始まるのが常。話がスポーツに及び、私がアイスホッケーをやっていて、NYではNHL(北米アイスホッケーリーグ)を良く見に行ったよ、といったとたん、彼が膝を乗り出してきました。
「あんたはどこのファンだ?」、「マディソン・スクェア・ガーデンに行ったか?」、
「NYレンジャーズをどう思うか?」などなど、立て続けに質問の嵐。
聞けばディックは根っからのNYレンジャーズ・ファンで、半世紀以上レンジャーズはスタンレー・カップ(NHLチャンピオン杯)から見放されていると、嘆くことしきり。その上、同じNYベースで新興のNYアイランダースにやられっ放しが悔しいとも。私のいた80年代前半からは補強でかなり戻ってきているではないか、などと慰めながら、それでも22番にはひっかき回されたね、と冷やかすと、「あんた、マイク・ボッシ-を知ってるのか。あのクソッタレの22番め!」と目をむいたものです。
このことでディックとの距離が一挙に縮まりました。とにかく余人はNHLの話題にはそう簡単に入れません。主なチームの花形プレヤーは名前こそウロ覚えでも背番号はしっかり覚えており、それで話は十分通じます。彼からすればまさか日本人とNHLのことで盛り上がるとは夢にも思わなかったことでしょう。
BCA仲間の謎、 「あのディック」を籠絡したタカシとは?

次にディックと出会ったのは94年マジョーレ湖畔ストレーザでのインターナショナル・コンベンション。
圧倒的に数が多く陽気なBCA組と比べ半数以下のジャパン組。お互いに殆んどが初対面同士の中で、BCAの中でも“存在感”のあるディックと私の親しげな話しぶりがBCA仲間の興味を引いたようです。
時計・宝飾部門のトップがマッキに代わって始まったこのコンベンション。(回想録11)
このようなキッカケからBCAとジャパン社の仲間はたちまち仲良くなり、それ以降、ジャパン社の参加者が増えてもBCAとの絆は変わらず、ついにはこの2社だけの研修までが企画され、いわば本社公認となったのでした。
トップ同士は別として、物知り博士で講師として社員研修で度々お世話になった営業トップのジョン・オマー、ヒューストン店長で時計プロのジョヴァンニ、グループHRトップのフラヴィアより絶大な信頼を得る人事のアン、ロサンゼルス旗艦店でハリウッド・スターたちをうまく仕切る店長ボニー・カイルなどなど、話題に事欠かない人材揃いとの交流は実に楽しいものでした。


中でも、私が勝手に“肝っ玉カアチャン”とあだ名をつけたボニーとは会う度に「マイボーイ、タカシ」と声が掛りトリプル・ハグ。BCA・NYに出張の帰路、ロスへの立ち寄りの際にはボニーが空港に手配してくれたクルマが北米では珍しいヘッド冠付きのロールスロイス。ド肝を抜かれたものです。
すべてはディックとの出会いから。彼が仲間たちに「ケン(私をNY時代のファーストネームで呼びました)はナイスガイだ。」と言ってくれたことがそもそもの発端にあったようで、ボスのマッキから聞いたこともありました。
長く続いたディックとの交流
NHL93-94年シーズンではディックごひいきのNYレンジャーズの調子が良く、レギュラーシーズン圧勝、プレーオフも次々と勝ち上がっている頃で、彼としてはコンベンションどころではなかったのではないでしょうか。
結果としてNYレンジャーズはホームリンクのマディソン・スクェア・ガーデンでの最終戦を制し54年ぶりに遂にリーグの頂点へ。そして念願のスタンレー・カップを獲得。すぐに彼にお祝いのFAXを送信、実に実に、嬉しそうな返信でした。

彼はけっこう細かい気配りの男でした。私のNHLパックの蒐集を知って、新しいチームが生まれる度にそのロゴ入りパックを送ってくれ、更にはNHLの至宝と言われ、その背番号99は全てのチームの永久欠番になっているウエイン・グレツキーのサイン入り写真をもらって来たからと送ってくれたものです。私の方も彼のお孫さんがベースボールカードに目がないと聞いていたもので、日本橋のカード店に出向いては王選手や野茂投手のものを送ったりしていました。引退後何年かクリスマス・カードの往来を経て、以降音信が途絶。どうしているのか気になっているところです。(続く)
2015年4月
深 江 賢(ふかえ たかし)