NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

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特集記事 ANA

ブルガリと私の回想録 第35回

妥協を許さない徹底した「ブランド価値」の追及

泣かされ続けたグループ・マーケティング長、S.ウルシーニのこと

LUCEA発表会で挨拶する筆者、バックは斎藤正剛演出の品川インターシテイホールの舞台(01.7)
LUCEA発表会で挨拶する筆者、バックは斎藤正剛演出の品川インターシテイホールの舞台(01.7)

ショップのバックオフィスの備品にまでこだわるのか!?

「このテーブルは何ですか。いくらショップのバックオフィスといえども、ブルガリにこんなお粗末なものを置いてはなりません!」

待望の(旧)銀座店オープニング当日。

みんなが浮き浮きした気分でその時を待っていた朝のこと、

トラーパニ社長と事前の下見にきたグループ・マーケティングのトップ、

シルヴィオ・ウルシーニが最後にのぞいたバックオフィスの

テーブルを見るや、叫ぶように言ったセリフ。

唖然とする店長たちを尻目に、シルヴィオはスタッフ一人を供に連れ、

その足で向かいの松坂屋に出かけて自らテーブルを買ってきたのでした。


シルヴィオ・ウルシーニ

社長フランチェスコ・トラーパニと学友とのことで信任厚く、

マーケティング担当上級副社長としてこの分野で絶対的な権限をもっていました。

80年代後半から拡大戦略に入ったブルガリの「ブランド価値」が

むしろ高くなり、ラグジュアリーの世界に浸透していったのは、

総元締めシルヴィオのこの徹底した姿勢があったからこそと言えます。

初めてのイベントに端を発したシルヴィオとの長いバトル

シルヴィオにとってジャパン社は絶好の
指導対象でした。

グループとして創業以来の世界的イベント、各国ロイヤルファミリーが総裁を務める世界自然保護基金とタイアップした新しいジュエリーライン「ナチュラリア」発表会。

91年秋の日本開催に際し、法人設立後すぐのジャパン社では期待された対応が出来ず、
完全お手上げ状態の中で、シルヴィオ自らが動いて、とにもかくにも成功裡に収束できたことは以前の稿の通りです。(回想録2

これでジャパン社はマーケティング「不可」という不名誉な烙印を押され、
それ以降は、ローマや日本でシルヴィオと顏を合わせる度に、
有能なマーケティング・マネジャーを探せと矢の催促。

バブルがはじけた直後で、業績は上がらないわ、
マーケティング部長クラスに見合う人件費の余裕などとんでもないわ、
で、こちらも出来ないものは出来ぬと開き直るもので、
当然それが大ブルガリという錦の御旗を掲げる若くて一途なシルヴィオの
気に障るのは当然、まあ、何かにつけて衝突したものです。

さすがに見かねて、相手は社長のご学友だから、
もう少し話し方に気を付けては とアドバイスしてくれる向きもありました。

幸いトラーパニとは最初の経緯から強い手ごたえを感じ、
また出張の度毎に状況と見通しを話ししていたので自信もありましたが、
94年半ばからのV字回復とそれに続く大ブレイクがなければ、
果してどうなっていたでしょうか。

遂に転機! シルヴィオを唖然とさせたイベント演出

94年初めに待望のマーケティング部長として鳥羽秀子が入社。
ローマの首実検も無事パス。
やっと日本ペースでコトが進められると考えたのが、ちょっとアマ過ぎました。

一度染み込んだジャパン社への不信感は簡単に消えるものではないようで、
鳥羽のあれこれ資料を揃えての提案にも、簡単にはクビをタテに振らない。

日本に来る機会は減ったものの、あれこれ注文を付けようとする姿勢は相変わらず。
こちらでは96年頃から百貨店イン・ショップの開店が続き、
同年末のシルクスカーフ、翌97年春のソロテンポ時計など、
新製品の発表イベントが続く中で、この調子ではヤッテラレナイと、
ハラを括ってトラーパニに直訴を考え始めた頃でした。

転機となったHTV発表会(左より1筆者、同3トラーパニ社長、同5シルヴィオ、同6鳥羽 97.12)
転機となったHTV発表会(左より1筆者、同3トラーパニ社長、同5シルヴィオ、同6鳥羽 97.12)

続く97年末、茶のエッセンスをベースにした化粧水HTVの発表イベントに
久しぶりにシルヴィオがトラーパニと来日しました。
例によって事前チェックに乗り込んできたシルヴィオが
新宿パーク・ハィヤット・ホテルのイベント会場に入るや否や、
顔を紅潮させ、一瞬凝固したように立ち止まったのです。

 

この演出は誰がやったの?」と、しばらくしてからうわずったような言葉。

 

あれほど不安視していたジャパン社のマーケティング活動を
『全て任せる』となった、正にこれがターニング・ポイントでした。

日本でのブランド・クォリティを圧倒的に高めたスペースデザイン

才は才を知る と言いましょうか。
シルヴィオの口を封じたのが斎藤正剛。

鳥羽の就任とともにブルガリにかかわるようになった新進気鋭のスペースデザイナー。紀尾井町の旧東京店のマーケティング部室に社員同様にデスクを構え、
この後も次々と催される新商品発表、ショップオープニング、
百貨店の催事などのブルガリ・イベント全てにタッチ。

電通と組んだ鳥羽が、六本木、代官山、台場、美術館、庭園、旧邸宅などなど、
他ブランドが手掛けていないと思われる場所をこれでもかと繰り出すたびに、
そのスペースを見事に料理して、メディアや招待客を
ブルガリの世界に引き込みました。

シーズンによっては、これらの方々にはブランドからの招待状が重なる中で、
如何にこちらに足を運ばせるか。
特にメディアでは編集長クラス、顧客ではVIPクラス。
ブルガリがその空間演出でいつも大きな話題になったのは
この斎藤正剛あってのことでした。(回想録18

イタリア大使館における斎藤正剛演出のテーブル(99.4)
イタリア大使館における斎藤正剛演出のテーブル(99.4)
同演出の庭園ショウ(01.5)
同演出の庭園ショウ(01.5)

彼が大いに腕を振った場がイタリア大使館。着任早々のメネガッティ在日イタリア大使のご好意で、99年創設のブルガリ・ブリリアント・ドリームス・アワードの会場として公邸をフルに使わせていただくことになりました。

カギとなる大使夫人の評価もExcellent! 翌年からは、花火で芝生を焦がし叱られるというオマケもありましたが、広大な庭まで使わせていただき、ゲストの方々には十分満足していただいたものです。(回想録13

同演出ブルガリ100年展(03.9)
同演出ブルガリ100年展(03.9)

その後ブルガリを軸に大手自動車会社や外資系ホテル界に活躍の場を拡げ、
異色のスペースデザイナーとしてその存在を構築しつつあった中で、
昨年暮れ50代の若さで病魔に倒れ故人なったのは痛恨の極みです。

年が明けて、多くの仲間が集まり正剛さんのお別れの会が催されましたが、
その会場が奇しくもパーク・ハィヤット・ホテル。
私には何かの縁を感じたことでした。

その後のシルヴィオとは

シルヴィオとジャパン社の関係はこれを機に大きく変わり、業容の拡大と鳥羽の活躍もあってジャパン社の提案はほぼフリーパス。お互いにいい形で前向きの話が出来るようになりました。

現在彼はホテル・レストラン部門のトップ。先日あることで10年ぶりにメールを出したところ、快い返事がきたのは嬉しい限りです。(続く)

20152

                     深 江  賢(ふかえ たかし)