NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

編集長 永澤洋児
深江賢に聞く~回顧録スペシャル~
洒落おやじの青春取材記 工藤
特集記事 ANA

ブルガリと私の回想録 3

「社員は全てブルガリ・ファミリーの一員だ」 

90年代のブルガリの大躍進はファミリー意識のチームワークが原動力 

(テーブルに全員で着席)コースの打ち上げにドレスアップして  勢ぞろいした講師と生徒たち。中央白ジャケットが筆者(91年8月)
(テーブルに全員で着席)コースの打ち上げにドレスアップして  勢ぞろいした講師と生徒たち。中央白ジャケットが筆者(91年8月)

初回の「ブルガリ大学」は

超リッチな内容
 ブルガリジャパン社が発足して、「ブルガリ・ユニバーシティ(大学)」と称する研修会が全て本社主導で次々と開催されましたが、講師たちが頻繁に口にした言葉がこれでした。「ブルガリ大学」の目的はただ一つ。トラーパニ社長の拡大方針で増加傾向の世界のグループ幹部社員への「ブルガリとは」の徹底的な意識改革と”ファミリー”として認識の場の提供でした。’91年に設立されて半年経った頃、日本での「ブルガリ大学」開催の連絡が来たのですが、まずはその内容に開いた口がふさがりません。
 ・研修会は2班に分けて、それぞれ一流ホテルで5日間。
 ・最終日は三ツ星レストランで正装・フルコースディナーで打ち上げ

日曜日にテニスでくつろぐボスと筆者(91年8月)
日曜日にテニスでくつろぐボスと筆者(91年8月)

研修といえば会社の一室でというのが常識でしたからまさに青天の霹靂(へきれき)とにかく、まずは「全ておっしゃる通り」と自分を納得させ、想定外の出費ながら、ヒルトンホテル東京を予約し、最終日はアイデアをひねって夜の東京湾クルージングのシンフォニーを借り切ることにしました。このクルージングのアイデアが双方に大好評の大当たり。なんと更にオマケが付き、オカに上がってからの2次会は当時話題のディスコ・ジュリアナ。ボスのポケットマネーでしたが、ボスをはじめ講師連中の見事なOn-Offの切り替えを見て実に感心したことを覚えています。

イタリアのリゾート地・ストレーザでの「インターナショ  ナル・ブルガリ大学」のファミリー仲間(94年5月)
イタリアのリゾート地・ストレーザでの「インターナショ  ナル・ブルガリ大学」のファミリー仲間(94年5月)

海外研修の度にファミリー意識が高まる
 現在はブルガリの代表的な店長になっている女性がいみじくも言ったことがあります。
 「まだ駆け出しの〈セールス〉の時にシンガポールで研修があり、初めて海外へ出たが、飛行機はビジネスクラス、ホテルは都心の最高級。まだ20歳を過ぎたばかりの自分がこのような待遇でいいのかなと思って研修に臨めば、講師はじめトップの方々が上から目線でなく話され、心から仲間扱いで歓迎してくれた。日本のように年齢で対応が変わるのではなく、れっきとした〈セールス〉としてリスペクトされたことで自分の中で何かが変わり、大きな自信につながった」と。

ローマ店の接客テーブル。奥に<セールス>が  座り、手前の顧客を応接する。アシスタントは  すぐ横に立って指示を待つ
ローマ店の接客テーブル。奥に<セールス>が  座り、手前の顧客を応接する。アシスタントは  すぐ横に立って指示を待つ

ここでブルガリの販売専門職〈セールス〉について述べておきましょう。
 当時ブルガリは販売専門職〈セールス〉とアシスタントの2人が一組になって顧客と接する方式を取っていました。ショップの入り口には鍵のかかったドアがあり、店内にショウケースなど一切なく、わずかにあるショーウインドウの商品には値札もついていないという店づくり。顧客はショップに入り、この〈セールス〉とテーブルに相対してはじめて商談が始まるというもので、最初から最後まで〈セールス〉はテーブルを離れず、商品の金庫からの運びなど全ての手続きはアシスタントが務めました。これは防犯上のこともありますが、〈セールス〉には単なる販売力よりも十分な商品知識や高い見識が求められ、当然に英会話は条件で、いわばショップ内では特別階級となっていました。

 話を研修に戻しますが、ブルガリはトラーパニが着任してから英語を公用語として決めていたこともあり、英会話が出来ることが条件となっている店長以上の幹部社員や〈セールス〉に対する「ブルガリ大学」を年に1~2度、内容に応じて、ローマ、ミラノ、あるいはNYやシンガポールで開催しましたが、出張条件は前出の店長談話の通りです。回数を重ねる毎に海外のショップにいる仲間と会う機会も増え、セッションの終わりにはトラーパニや場合によってはパオロ、ニコラと言ったファミリーのトップも加わってディナー会があり、その後はピアノを囲んで歌を歌ったりして騒ぐのが常だったので、知らず知らずのうちに強い仲間意識が出来、それがインターナショナルな環境だけに、ファミリー意識的なものが生まれたのは自然の流れでした。

 このほか稿を改めますが、’94年からはInternational Conventionが年に1回開催され、ますます海外の仲間との接点が増えました。このように中で”私たちはファミリーの一員なのだ”という認識はますます高まり、あの国の彼/彼女には負けないぞ、あのショップには負けないぞ、というような意識が強いチームワークとなって業績に反映していったことでした。

ブルガリ大学」打ち上げ後、ディナーあとに行われた  歌合戦、イタリア国旗をおいてのイタリアチームの歓声  (94年5月)
ブルガリ大学」打ち上げ後、ディナーあとに行われた  歌合戦、イタリア国旗をおいてのイタリアチームの歓声  (94年5月)

“ブルガリの店長は落ちない”

ヘッドハント会社の評価の定着
 中堅幹部を優遇し、それに対し積極的に投資をする。
 企業はトップだけで成り立つわけではなく、如何に中堅幹部がトップの意を解して下に伝え、それを纏めて行くかに掛かっているわけで、ブルガリはその方針を徹底していました。
 次々と提供される「ブルガリ大学」を通じ、ファミリー意識が高揚。ひいてはこれがブランドへのロイヤリティ(忠誠心)となり、店長クラスにヘッドハント会社から声がかかっても全く動く気配も見せません。
 お陰さまで当社はこのようなヘッドハント会社の評価をいただき、この業界では珍しく幹部社員の出入りの少ない会社になったことでした。<続く>

深江 賢(ふかえたかし)
深江 賢(ふかえたかし)