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ブルガリと私の回想録25

日本提案のブライダル・ライン、銀座店のエースに

 

 ブライダルの広告(一部)
ブライダルの広告(一部)

- 順風満帆の滑り出しに、思いもかけぬ落とし穴 -

◇8ヶ月待ち!?

 

「まことに申し訳ありませんが、納期は8ヶ月先になります。」

噂が噂を呼んで、ブルガリのブライダルはブレイク。銀座店4階のブライダルサロンに若いカップルが溢れ、このような事態になりました。

 

世界に通用する街、銀座。その知名度と集まる客層を考えて、ブライダルビジネスに進出しない手はありません。97年12月銀座通りへの出店(回想録24)という絶好のタイミングをとらえローマ本社に提案。一つの国や地域のために特別なラインを作らないというブルガリの鉄則は十分承知のうえです。有力ブランドの動向を報告、ラインの将来性についての展望資料を作るなど、如何にブライダルがジャパン社の、ひいてはブルガリの経営に貢献するかを訴えました。98年秋のトラーパニ社長が、来日の機に自ら銀座のミキモトやティファニーに足を運び状況を確認、そして、GO! まさに、やった!! でした。

 

それ以前にも、いくつかのリングがエンゲージリングとして評判を呼んでいた実績があり、それらをベースに改めて<ブライダル・ライン>として商品幅を拡げ展開、効果的な宣伝で知名度がアップ、01年のブライダルサロン新設で人気が一挙に噴き出したわけです。

 

◇人気先行が納期遅れ続出で一挙に暗転、結婚式に間に合わない!

 

良いことばかりは続かないものです。肝心の商品が納期通りに届かない。せっかく8ヶ月先の納期で了解していただいたのに、これではただ事で済むはずがありません。結納や結婚式の日程は決まっています。ご本人たちだけではなく、ご両親まで巻き込んだ大問題が次々と発生しました。

 

今にして話せることですが、順風満帆の銀座店に大きな影を落したのは予想もしなかったローマのジュエリー職人たちの考え方の違いでした。

ブライダルの広告(一部)
ブライダルの広告(一部)
ジュエリーの製作風景
ジュエリーの製作風景

「(エンゲージリング主流の)0.3カラット・ダイヤをマウントするなんて、俺たちはそんなチャチなものを作るために働いてきたのではない。」


「細工ナシ・刻印だけのマリッジリンなんて、

  <ジュエリー>ではない」

 

ブルガリの伝統は俺たちのウデが築いてきたものだ、という確固たるプライド。いかに社長のGO指令とは言え、簡単に「ブライダル、ハイ、ソウデスカ」 とはならなかったのです。彼らに言わせると、1カラット未満のダイヤは装飾用のパヴェ・ダイヤだという素人には信じられない概念があり、ブライダル・ラインに職人のモチベーションが中々上がらないという事態になりました。 

 

 同ダイヤモンドのセッティング
同ダイヤモンドのセッティング

まさか身内に足を引っ張られるとは想定外もいいところでした。プロダクション相手では埒があかず、本社営業トップ、更にはトラーパニにまで直訴。全社を挙げて体制を立て直したものの、平常ペースになったのがやっと2年目後半。その間、ショップでは店長以下スタッフ全員が描写できないほどのお詫びの日々。お客さまにはまことに申し訳ないことでした。

 

◇「ローマ本店に追いつこう、追い越そう!」

 

このような中で銀座店には開店以来ずっと人が溢れていました。狙いは的中。銀座通りから裏のすずらん通りまで続くショップは、通勤帰りに人が通り抜けても目立たないほど。閉店時間になってもお客さまが退かず、毎日のように残業が続きます。ドイツの一時代ではないですが、まさに疾風怒涛の時期でした。

銀座ブライダルサロン入口
銀座ブライダルサロン入口
同内部風景
同内部風景

店長片野真裕(当時)の掲げた目標が、これ。クレームは来店客の多さに比例します。さらに加えて、納期遅れ続きのブライダル。ともすれば落ち込みがちになるスタッフを鼓舞するためにも、絶対的なグループ旗艦店であるローマ本店相手に、無鉄砲と思えるチャレンジを宣言したわ

けです。

 

ついには25時(午前1時)、26時(同2時)という銀座店だけに通用する時間帯が登場。グループ内でももちろん初めてです。日々の活動に加えて、あれこれ業務が多いのが店長。年次や賞与考課時の個人面接はどのような事情があってもマスト、一人一時間。その時期は毎日のように深夜の面接が続きました。

 

「みんなが良く付いてきてくれました。」とは片野のしみじみとした述懐。

今のコンプライアンス全盛の常識からはとても考えられない環境で、ショップ全員が憑かれたよう目標に向かって疾走していました。

 

 01年の改装を経て、遂にこの目標を達成。以降、グループ最大面積を持つNY店が登場するまで、単独店としてダントツのトップ店としてグループ内に君臨することに

なります。

 

◇「リーダーはキモが全てですね」

 

 現在もブルガリで、また、外に出て他のラグジュアリーブランド社で、それぞれ人を率いる立場に就いている当時の部下たちが「あの時代にあの店長の下にいたから今の自分がある。」と口をそろえます。

 

何故当時の部下たちが異口同音にそういうのか? この稿をまとめるに当たり、今はファッションと香水で世界を席巻するトップブランドの日本法人に移り13年、そのジュエリー部門の要職にある片野にこの点を聞きました。

 

 

ジャパン社発足時はセールス・アシスタント(クラーク)。翌92年、福岡のホテル・ニューオータニに第3号店をオープンしたのを機に店長として単身赴任。1ヶ月の中20日も来客が無いという小型ショップで着実なルティーンワークの重要さを体得。次の大阪店長では、関西特有の厳しさと人情を体験するなど、いくつかの店長経験を経て、銀座店の初代店長に着任と言うそれまでの経歴。

 
銀座店開店レセプションで名刺交換する小坂ギンザコマツ社長とトラーパニ。中央は筆者。(97.12)
銀座店開店レセプションで名刺交換する小坂ギンザコマツ社長とトラーパニ。中央は筆者。(97.12)

その答えは、部下30人に及ぶ大型店では率先垂範は難しいと気が付き、人に任せるようにしましたとのことで、最後に口から出たのがこの言葉。権限委譲するにはどれだけハラを括らなければならないか。先頭に立って何事も自己解決でやってきた者が、人に任せて、想定外の結果を招くことがあっても、責任は全て受けて立つのだと言うリーダーの覚悟の見事な表現でした。


                              (続く)

 

2014年4月

 

                    

深 江  賢(ふかえ たかし)