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ブルガリと私の回想録24

出るなら銀座通り、外国ブランド第1号の進出を果たす


- ライバル視されるブランド相互の交流が
GILC(後述)に結実 -

 GILCイベント・VOGUE写真展を報じる2002.10.21.付WWD紙(部分)
GILCイベント・VOGUE写真展を報じる2002.10.21.付WWD紙(部分)

 

「ブルガリは並木通りの<その他大勢ブランド>にはならない」

 

 「フカエさん、おつかれさま。またイタリヤ行き?」

9611月、成田空港のJALラウンジ。搭乗時間までいつものようにコーヒーを飲んでいた時のこと。振り向くと、時々ご一緒して情報交換などをする業界通の女性。今からパリに行くのだと言う。何気ない会話の中で、「ブルガリはなぜ銀座に出ないの?」と聞かれて、「大いに出たい気はある。しかし・・・」と続けたのがこの言葉でした。

 

 銀座並木通りは、ブランド業界の長老、サンモトヤマの茂登山長市郎会長がその風情と買物し易い道路幅からパリのフォーブル・サントノーレ通りにイメージを重ねて惚れ込み、50年代半ばにご自身の店をオープン。それ以降、年を追って高級ブランドが競って軒を並べるようになり、当時では世界に名を馳せるブランド通りに成熟。90年代後半に入り飛躍的に認知度が上がったブルガリも、頻繁にここへの出店のお話しをいただくようになりました。

 

 平成不況の中、後々発ブランドとして先行ブランドに追いつけ、追い越せと、他社とは同じ手を使わない逆張り戦法(回想録17)で突っ走ってきたブルガリの志はあくまで鶏口牛後。如何に有名な通りのお誘いとは言え、今さらこの姿勢を変える気はなく、その気持ちを伝えたわけです。

 

 

縁に導かれたブルガリ銀座店、グループ単独店でダントツの売上に

挨拶する筆者(同)
挨拶する筆者(同)
リニューアル完成、グランド・オープンのモデルたちによる街頭デモンストレーション(02.10)
リニューアル完成、グランド・オープンのモデルたちによる街頭デモンストレーション(02.10)

縁はまさに異なもの。このラウンジの出会いがキッカケでブルガリは銀座通り進出の外国ブランド第1号となります。(正確には百貨店名義のビルで販売していた1ブランドがありました。)

 

銀座通5丁目のギンザ・コマツのマーチャンダイジング・アドバイザーもされていた彼女は、同社小坂敬社長の指示で1階の全面リニューアルに際しての看板ブランドを探していたとはあとで知った話。紆余曲折ののち、待望のショップオープンは翌97年12月12日。永年の銀座への思いが実現した感激の瞬間でした。その後、この銀座店は2階と4階に拡張され(01.4)、グループで単独店舗としてダントツの売上を誇ることになります。

 

 

◇銀座通り改革への大きな流れはブルガリ出店がターニングポイント

1. ブルガリ銀座店・披露セレモニーのテープカット(97.12) 中央左より、小坂ギンザコマツ社長、筆者、トラーパニ・ブルガリグループ社長、ドミネド駐日イタリア大使
1. ブルガリ銀座店・披露セレモニーのテープカット(97.12) 中央左より、小坂ギンザコマツ社長、筆者、トラーパニ・ブルガリグループ社長、ドミネド駐日イタリア大使

 

 現在の銀座3丁目の交差点。ルイヴィトン、シャネル、カルティエ、ブルガリが覇を競う通称ラグジュアリー・スクエア。さらには世界の著名ブランド店が並ぶ銀座通りや晴海通りの姿から、わずか四半世紀前ごろまで、旧態依然としたままの老舗がちまちまと軒を並べ、4丁目の角にはハンバーガー店の黄と赤色の派手なマークが大きな顔で鎮座していたとはだれが想像できるでしょう。

 1869年(明2)に現在の1~4丁目に初めて銀座という町名が登場。1930年(昭5)に5~8丁目を併せて<銀座8丁>となり現在の銀座の基礎が完成。この頃に19年(大8)からいわば町内会として在った組織を改称して発足したのが、銀座各種団体・通り会の中軸となる今の銀座通連合会(以下銀連会)。関東大震災(23年・大12)や東京空爆(45年)などの大災害から銀座を立ち直らせた主役の一人であったわけですが、それ故に逆に80余年の歴史は重い。会の内部では数で圧倒する老舗の発言力が常に優勢で、銀座通りを文化的で大人の街に変身させたいとする改革派は切歯扼腕を余儀なくされていたようです。

 

 

 その流れが97年6月の小坂社長の銀連会理事長就任で変わります。先頭を切る風当たりの強さを承知の上で、隗より始めよ、就任後すぐに自社ビル正面ファサードを全面リニューアル。次いで12月に誰もが踏み切れなかった外資ブルガリの1階への導入。これが端緒となって、あっという間に多くの老舗店が追随。更には、正面に米ITブランドの大きなリンゴのマークをつけた4丁目近くの8階建ビルや前出3丁目の交差点のビルなどのように、スッキリした1棟貸しが主流となりました。かくして21世紀に入り、銀座通りは現代のライフスタイルを発信する街に見事に変身したわけです。

 
 
 永年の夢が叶い、レセプションでほっと一息(同)
永年の夢が叶い、レセプションでほっと一息(同)

◇GILC(Ginza International Luxury Committee)の誕生と発展

2000年半ば、理事長より銀座通りに大型店を構えるラグジュアリー・ブランドをまとめて何か出来ないかとの話があり、私自身も世界のトップブランドの日本代表者との交流を模索していたこともあり早速行動に移しました。瓢箪から駒。意外や意外、面白いじゃあないかと賛同したのが、バーバリー、カルティエ、エルメス、ルイ・ヴィトン、ハリー・ウインストン、ティファニー(とブルガリの7社)のトップたち。01年10月に正式に会として発足。以降ほぼ毎月、超多忙なトップたちが時間をやり繰りして集まり、実に様々なテーマで議論したものです。独自のスタンスを確立した世界のブランドを代表する方々の発言はいずれも耳を傾けるに十分で、いつの間にか芽生えたお互いのリスペクトの気持ちが素晴らしいチームワークを創り上げていました。

 同会場風景(02.10)
同会場風景(02.10)

みんなで考えた名前がGILC。銀連会では「国際ブランド部会」として初代GILC会長に就いた私が代表で出席。最初の中は「世界」を背負うブランドの集まりに対し、老舗側から異星人的な見方もあったのですが、メンバーの「銀座ブランド」への敬意と、更には各ブランドの伝統を踏まえた革新への姿勢が伝わるとともに距離感も消えてゆきました。

 

そのような中で、銀座の発展へ何か形を見せたいとの意欲が02年10月の第1回イベント「VOGUE写真展‐All About Elegance」に結実します。斎藤和弘ヴォーグニッポン編集長(当時)のご協力で、アーカイブから最古は1932年を含め7ブランド関連写真7点づつをセレクト。各社マーケティングのワーキング・チームのもと、シャネル銀座ビル特設会場で2週間にわたり開催。2万3千人に及ぶ入場者があり、銀座の文化度アピールにしっかりと貢献しました。

 

 

02年にシャネル、フェラガモ、ミキモト、プラダの4社を招聘。翌年3月、次期会長をエルメスの斎藤社長(当時)にバトンタッチ。以降、歴代のリーダーの下、GILCは新しい仲間を加えて順調に発展。現在では、銀座の統括組織となっている全銀座会の中で、銀座まちづくりの重要な担い手とのことです。

 
 現在のブルガリ銀座本店 年末限りのナイトデコレーション
現在のブルガリ銀座本店 年末限りのナイトデコレーション

世にライバル視されるトップブランドたちが協力して一つのイベントを催すという事実は過去世界のどこにもありません。この実績はささやかながら私の誇りであり、また、その日本の代表者たちと仲間意識の下に、有意義な時間をシェアできたことは実に素晴らしい思い出となっています。(続く)

 2014年3月

                   深 江  賢(ふかえ たかし)

参考文献

*花、ひらく ギンザ・コマツの四季 (2006年3月 株式会社小松ストアー編)

*私の銀座風俗史 (2003年8月 石丸雄司著・銀座コンシエルジュ編)

*銀座の達人たち (2006年10月 早瀬圭一著)