ブルガリと私の回想録 23
北太平洋エリヤが本社の卸取引の拡大方針にNO!
- 日本と韓国の直営店ネットワークがグループ最大に -
◇日本は百貨店との信頼関係を最優先に
この1月に亡くなった関西固執のタレント やしきたかじん が自己のトーク番組で、大阪人が久しぶりに会ったら、あれこれ言わずに「どや?」で済む、と言ったのは良く知られた話ですが、言われた方も「ボチボチやな」で、お互いが納得し、空白の時間が消え去ります。
このようなツーカーのコミュニケーションが国際社会でも通じたら、どんなにいいかと思いますが、これを南の極とすれば、国際社会は北の極。とにかく、道路一つ隔てた向う側が、人種も言葉も法律も違うよその国だ、という世界から、四方を海に囲まれた単一民族の日本の事情を理解することは難しいことなのでしょう。逆の場合も多々ありますが、ここではそれは置いておきます。
94年に新しいボス、マッシモ・マッキが着任し、6エリヤ制が本格的に機能し始めたわけですが(回想録10)、90年代後半の総支配人会議で、グループの規模拡大のために問屋経由の販売ルート、いわゆる卸取引を推進することに他の5エリヤの賛成に対し、北太平洋エリヤだけが反対という5対1論争がありました。ジャパン社の急成長を支えた百貨店とは「一都市一店舗」という基本的了解あり、その信頼関係を破ることは出来ないという事情を中々理解してもらえない。考えてみれば、日本の百貨店のように国中をカバーして強大なステータスと販売力を誇る小売業は他の世界に無く、一方彼らはエリヤが広いために、「ブルガリ自身が経営するショップで商品知識と十分な研修をうけたブルガリスタッフによる顧客への直接販売」という伝統を守っていては、物理的にエリヤの成長は不可能で、問屋ルートの活用は必須だったことでしょう。最終的には、ボス・マッキの裁定で北太平洋エリヤは例外扱いとなりました。
◇卸取引拡大による並行輸入の増加が最大の問題点
ただ、ある程度数量を追及するネクタイやレザー商品については卸に頼らざるを得ない面もあり、また、今後の別稿で述べる予定の日本人経営によるホノルルの卸取引先がらみの事情もあり、01年頃から取引先百貨店の了解を得て、時計の卸取引を試験的に一部地方で始めることになりますが、狭い日本で、規模拡大と言う大義名分のために、末端のコントロールが難しい卸取引を増やしても、逆にブランド価値が下がるだけのこと。更に、他エリヤでの卸取引増加は並行輸入業者への商品、特に時計の流出を防止できず、各所のチラシでの目玉ブランドに使われるようになってきたのは最大の問題点と言えます。

◇韓国での展開はDuty Freeから、その購買者の殆んどが日本人とは、、、
韓国でのショップ展開はDuty Freeショップから始まりました。百貨店はそれなりにありましたが、ブルガリの期待するステータスに遥か及ばず、また富裕層は高級品の買い物は国内ではなく主に海外でするとの調査結果がありましたので、まずは拠点づくり的な感覚でした。
当時のボス・ブロゼッティと共にロッテ百貨店と約1年のネゴの末、93年3月に1号店をオープン。その後、ロッテ社を主なパートナーとしてDuty Freeショッピングエリヤ内に計6店を出店しました。(ロッテプサンDF・96.3、ロッテワールドDF・99.5、ロッテチェジュDF・00.4、パラダイスプサンDF・00.10、インチョン空港ロッテDF・01.3)
しかしながら、このように韓国でDFショップ群を展開し、ブルガリ本社ては評価されたわけですが、私自身は何となくヤルセナイ気分でした。このDFゾーンはパスポートを持った外国人旅行者しか入場できず、その殆んどが日本人なのです。北太平洋エリヤ担当ながらもジャパン社のトップとしては、いわば自分の手足を食っているタコと同じような感覚だったわけです。
90年代後半、韓国の政治・経済の事情が大きく変わり、百貨店に国内顧客向けの環境が整い始め、やっと99年3月になって単独ショップをロッテ百貨店にオープン。引き続き、現代百貨店(99.9)、ガレリヤ専門店(01.5)と、3店舗ともソウルに世界のブルガリスタイルでショップを運営する運びとなりました。
地元でブランド品の本物を手に入れる機会の到来とあって、各ショップのオープン披露には多くのメディアの取材が集まったものです。
◇ショップ指導に女性課長を送り、相手より「我々を舐めているのか」
韓国でのビジネスは各種の制約からJ/Vパートナーの伊藤忠にお世話になり、ショップのオペレーションについてはジャパン社が担当しました。ブルガリスタイルを浸透するために、在庫管理、商品の扱いから接客に至るまで各担当の長を出張させましたが、大いに驚いたのがビジネスにおける男性社会の伝統でした。部長クラスが出かけ、同じクラスの相手と接している中はよかったのですが、頻度も増え、徐々に現場のことが必要となり、女性の長を送ったところ不快なことがあったとの報告です。要は「女をよこすとは、我々を舐めている」と取られていた様子で、改めて日本の事情と派遣した長の力を説明して誤解を解いたことがありました。まさに冒頭記述の<よその国>の典型で、それなりの知識は持っているつもりでしたが、改めて身の引き締まる思いでした。
00年11月にトラーパニ社長の初来韓を得て、01年に韓国法人(ブルガリ・コリア)が設立され、初代社長を兼務することになりました。出張の機会も増え、その度毎の現地幹部や社員たちとのコミュニケーションや、家族を交えての社員懇親会など、今ではすべてがいい思い出となっています。
◇DF部門が設立され、グアム、サイパンを割譲
北太平洋エリヤにグアム・サイパンが含まれたのは、本社がもう一方のJ/Vパートナー・アオイのグアム現地法人を視野に入れてのことでしょう。何度か足を運び、同社所有のグアムのタモンサンズ・DFショッピングセンターにある一ブースをブルガリ・ショップに改造(98.10)しました。一方、本社では各エリヤで対応していたエアラインの機上ショップや、Duty Free関連のビジネスを一部門に纏める動きがあり、01年になって6エリヤ格で独立。当エリヤは開拓したDF事業を全てここに割譲。日本29店舗と韓国3店舗の直営店ネットワークを柱に売上規模 (小売価格ベース) でグループ最大となりました。(続く)
2016年2月
深江 賢(ふかえ たかし)