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ブルガリと私の回想録 22

ブルガリがファミリー企業として最後の単独イベント125周年に際しての記念の初日カバー(09年)
ブルガリがファミリー企業として最後の単独イベント125周年に際しての記念の初日カバー(09年)

   「軽く食事でもしませんか」の誘いに仕組まれた人物評価面接

― 今だから話せるトラーパニ社長との出会いと退任時のエピソード ―

 ◇冷や汗もの、大ジョッキとWロック3杯を飲んだ後での初対面

 

 トラーパニとの初対面。型通りの紹介を受け Nice to meet you! とNYで仕込まれた習慣で強く握手をした時に、彼は オヤ? と言う顔をして改めて強く握り返してきました。

在日イタリア商工会議所ガラディナーでのトラーパニとの2ショット(00.11)
在日イタリア商工会議所ガラディナーでのトラーパニとの2ショット(00.11)

とにかく、待たされました。

90年の12月半ば、伊藤忠の担当部長代行から当時アルマーニの私に、ブルガリの社長が来ているので軽くメシでもいかが?とお誘いがあり、いい機会とばかり承諾。7時PMのアポで指定されたホテル・ニューオータニ前の中華飯店・維新號に着いたところへ、少し遅れるから一杯飲んで待っていて下さいとのこと。予約席が大部屋の丸テーブルでもあり、大勢と一緒の会食と思って気楽に大ジョッキを飲んで待つこと30分。また電話があり、もう少し待っていてほしい。話が長引いているなら仕方がないかと、腹の膨れないウイスキーのロックをと、決してオサケは嫌いではないのでWをスイスイと3杯目でやっと登場、で最初のシーンとなるのですが、きっと飲んでいたせいと、よくぞ待たせてくれたナと言う気持ちで、普段以上に握手に力が入っていたかもわかりません。

 

そのうえ、来たのがトラーパニと部長代行氏の2人。更に驚いたのが、さあメシだ! と着席するや、彼がブリーフケースから出してきたのが私のレジュメ。思わずウッソ―と叫びそうになり、代行氏の顏を見るとニヤリ。よく考えれば、こちらもアマイ。新しいJ/V会社の代表者候補の一人であった以上、単にメシだけとはあり得ない話でしたが、まさに一本トラレタ!の感でした。

 

 その時に何を話ししたか覚えてはいませんが、話は大いに盛り上がりました。

業界のこと、NYのこと、ブランドのあるべき姿、そして、アルマーニでイヤと言うほど仕込まれたブランドビジネスにおけるマーケティングの重要性などなど。B型の開き直りにお酒の勢いが輪をかけて、さぞ好きなことを言わせていただいたことでしょう。また彼の方も意識的に反論してきたりで、気が付いた時は周囲のテーブルに人影なく、私たち3人だけとなっていました。

 

 

 別れ際、今度は彼の方からの力を込めた握手でした。

パリ・プラザアテネホテルでの最初の国際会議(91.9)
パリ・プラザアテネホテルでの最初の国際会議(91.9)
同メンバー表
同メンバー表

 

◇ニューヨークでのビジネス握手とは

 

 「ビジネスは初対面の握手で決まる」と言われるほどニューヨークでは握手が大事とされており、私がNYに赴任した初日に担当部長から「ここでは初対面の握手をする時は、相手の目を真っ直ぐに見て、力一杯手を握るんだよ」とアドバイスを受けました。これはその態度で 出来るヤツか出来ないヤツか を測るビジネス慣習があるとか。新規川下ビジネス開拓が中心だった私は名刺を交換する機会が多く、その度に体格のいい相手と強い握手を繰り返して、オーバーでは決してなく、後でよく手が腫れ上がり水につけたものでした。

 

 おかげで握手に関してはいい習慣が身に付き、NY在任中は相手からは評価され、またイタリア関連の仕事に就いてからの国際交流の場でも大いに役立ってくれました。ただ困ったのは日本で、当然ながら握手の習慣が無く、うっかり強く握ってしまって、力が強いですね、と皮肉を言われたり、テニスのゲームで、特に帰国当時、同じことをやってしまって嫌がられたりしたものです。

 

◇結果オーライ、決め手はいまだに?

 

明くる朝、部長代行氏から「お願いすることになるでしょう。トラーパニ社長の帰国前に、うちの部長に他の候補者はもう要らないと連絡があったそうです。」との電話で、このハプニングな面接は結果オーライとなりました。が、あとで思えば、我ながらコワーイ話ではありました。

 

◇社長退任への仕掛けは早く、引継ぎの実行は日本流に

 

 今度は逆に退任時の話です。

幸いにして、環境、内外の関係先、社員たちに恵まれて、ジャパン社の91年創設以来、大過なく務めて来ましたが、外資企業トップとしての常識的年齢を考えて、私はかなり前からトラーパニ社長と後継者について話を始めていました。ただ、これにはどうしても受けてもらわねばならない私流の二つ条件がありました。一つは外資の常とされる社長の引継ぎナシの即交代劇ではなく、日本事情に合わせて適当な引継ぎ期間を設けること、もう一つは新旧社長披露パーティをトラーパニが主催すること。幸いいずれも快く了解してもらい、後継者ステファン・ラフェイは03年半ばに入社、パーティは同年11月18日に業界・メディアなど主な関係先をお招きして旧小笠原伯爵邸で開催。日本の外資企業としては稀有の例として、すべては滞りなく進んだのでした。

 

◇最後の我がまま

ブルガリ・ジャパン社発足当時の筆者
ブルガリ・ジャパン社発足当時の筆者

この身勝手な二つの条件が受け入れられたことは、当時、いかにジャパン社が重視されていたことかと嬉しい限りですが、実はもう一つ、最後となった秋のローマ出張の折に、トラーパニに直談判をしていたことがありました。

 

それは本人が一日前に日本に来ることの要請でした。多忙な彼がいつもやるように当日着のフライトスケジュールの場合、たまにあることですが、もしそれが何らかの事情でキャンセルや遅延など不測の事態になれば、パーティは主催者不在となり、招待客に対してのみならず、主役の2人にとってもサマにならないというわけです。これもニヤリとして、「タカシ、分かったよ」と快く受けてもらえたのは有難いことでした。

この03年末付で私は無事社長を退任して会長に就任。ブルガリグループの中で本社役員格としては、途中退職が常態の中で最初の引退者となりました。ちなみに、私のあとは財経担当EVPが定年退職したのみで、純粋の「ファミリー企業としてのブルガリ」は11年に創業127年の幕を下しました。(続く)

2014年1月

 

                    深 江  賢 (ふかえ たかし)