NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

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特集記事 ANA

ブルガリと私の回想録 17

 ブルガリの百貨店進出に際しての裏ばなし

新参のブランドが対抗できる道は『逆張り作戦』しかない 

本社の合意を得て、色々な形でメディアへの露出が増えはじめる 週刊経済誌のオフビジネス・コラム、趣味のオペラ観劇モチーフ(98.12)
本社の合意を得て、色々な形でメディアへの露出が増えはじめる 週刊経済誌のオフビジネス・コラム、趣味のオペラ観劇モチーフ(98.12)

「泣く子も黙る」辣腕バイヤーを黙らせる!

「ブルガリはうちの部長としか話をしないそうだが、オレの立場をどうしてくれるのだ!」

百貨店との取引が始まってすぐに、営業部長が担当バイヤーに呼び出され、このような言葉で厳しく叱責されました。

 

それ来たか! バイヤーの呼び出しは十分想定していたこと。あらかじめ営業部長には「その通り。うちの専務(当時)は部長としか話をしないと言っていますが、どうしましょうか? その前にまずはそちらで部長とお話し下さい。」と丁重に答えるように指示していました。

 

百貨店用語で「業者」と言う独特のニュアンスを持つ言葉があります。百貨店が納入業者を指す略称で、百貨店が取引を認めたという、いわば「お墨付き」を与えた先で、この百貨店に取引口座を持つことは一流の証し、銀行関係でも大きな信用となります。欧米とは異なり、日本の小売界では20世紀末頃までは百貨店が絶対の立場を誇り、業者にとって百貨店取引が大きいほど業界での評価が高いわけですが、それを取り仕切る窓口がバイヤーと呼ばれる仕入担当でした。従って、納入業者とバイヤーの力関係は言うまでもないこと。大抵の百貨店には商品群ごとに強権をほしいままにした看板バイヤーがいて、「泣く子とバイヤーには勝てぬ」とまで言われたものです。

 

結果的には、改めてバイヤーに挨拶に行ってブルガリを理解していただき、それからは逆に実務面で色々サポートを得ることになりましたが、ブルガリは百貨店の各部署が最も嫌がるトップダウンのアプローチをやって、現場で認められた例外的な存在であったと言えましょう。 

「相手に頭を下げさせて取引する」逆張り作戦の背景

同じく、東京本店前でのモデル並みのポーズ(98.9)
同じく、東京本店前でのモデル並みのポーズ(98.9)

 

本社トラーパニ社長の販路拡大方針に従い、93年に入るや早速ジャパン社でも百貨店取引に動き始めました。これに際し私が決心したことは、新参ブランドのブルガリが生半可なアプローチでは、有名ブランドがキラ星のように並ぶ百貨店に入れるはずはなく、ここは「相手に頭を下げさせて取引をする」思い切った逆張り作戦でした。絶対的存在の百貨店に対し、身のほどを知らぬ「蟷螂の斧」的な戦法に見えますが、実はそれなりのヨミがありました。

 

まずは天の時。バブルがはじけた直後の壊滅的な不況期、百貨店の売り上げは軒並みに減少、それが止まる目途すら立たない中で、必死に探していたのが回復のきっかけとなるような起爆剤。一方、ジャパン社自身が設立予算から大幅ずれの中ながら、欧米では超有名でも日本市場での知名度が限りなくゼロに近いブルガリは、アプローチ次第では飛びついてくる可能性十分との予感。

 

次に地の利。狂乱のバブルで主役を張った日本は、欧米の高級ブランドにとって最優先の市場となり、成熟した第2次ブランドブームが到来していました。(第1次は昭和40年代の高度成長期で、値段さえ高ければ売れた時期。丁度今の中国。)そんな中で「未発掘の世界的なブランド」こそブルガリではないのか。

 

最後に人の和。この頃には既に本社の信頼もあり、今回の百貨店戦略について事前に意見を交わした結果、すべて任せると言質を得て、大抵のことは交渉の現場で自分が決済できる態勢を作っていました。 

まずは一点突破、次に業界常識を破る要求

本社でのチームリーダー・コンベンションで総勢60名中ジャパン社から12名、その 勢いを示す(ボードを支えるのが筆者 98.2)
本社でのチームリーダー・コンベンションで総勢60名中ジャパン社から12名、その 勢いを示す(ボードを支えるのが筆者 98.2)

J / V パートナーである株式会社アオイのブルガリ代理店時代に髙島屋が取引を打診してきたこともあり、まずはここからアプローチすることにしました。髙島屋は日本橋・横浜・大阪難波・京都・新宿(当時計画)と基幹都市に大型店を構え、一店集中型の他百貨店と大きく異なることもあり、こちらとしてもスタートするには理想的です。高級輸入ブランドで長年の取引があるアオイ・酒井社長(故人)に伴われて、髙島屋・田中社長(当時)に面会。結果は即決。すぐに呼ばれた特選売場の元田正之部長(当時)と詳細を詰めることになりました。

 

店内ショップの場所や広さ、それの直営方式、常識破りの掛け率(納入価格)、百貨店カードによる値引きの除外扱い(当時ルイ・ヴィトンだけに適用)などなど、業界常識から見れば新参ものの無鉄砲な要求は、3年間の髙島屋独占条件と引き換えに手打ち。かくて、ブランドを熟知する社長、豪胆な担当部長の下、これから髙島屋とブルガリの蜜月時期が始まります。

 

元田部長は実に話がストレートで決断が速く、因習に余りとらわれない実行力がありました。こちらも任されているだけに、他のブランドトップのように案件毎に本社にお伺いを立てることなく即断即決する。そこの波長がバッチリ合ったのでしょう。それに関西人同士の気安さから、会う機会が増えるにつれ、ホンネでの話が出来るようになりました。関西弁はこの点キツイことでも軟らかくくるみながら対応できるという大きなメリットがあります。

ブランドはブームになったらオシマイ、ブルガリは絶対にブームにしない!

百貨店進出第1号店・髙島屋京都店内ショップ (隣はシャネル、ニコラ・ブルガリの来日時 94.5)
百貨店進出第1号店・髙島屋京都店内ショップ (隣はシャネル、ニコラ・ブルガリの来日時 94.5)

 

93年末京都店の出店から始まり、95年大阪難波、96年横浜、日本橋、新宿各店に出店。約束通り髙島屋に絞って出店を続けましたが、仮に独占条件が無くても、元田部長の存在はこうさせたことでしょう。私は長いブランド世界の経験から、「ブランドはブームになったらオシマイ」と言う信念を持っていましたが、彼もまったく同意見。如何にブランドを長続きさせるか、お互いに立場を離れて、ヒルに、ヨルに、随分と「意見交換」をしたことでした。

 

ブルガリの百貨店解禁の噂があっという間に業界にひろがり、殆どの百貨店から出店のお誘いをいただきました。幹部が直接イタリア本社に魅力的な条件をひっ提げて乗りこみ、トラーパニ社長に直談判したところも何社かありましたが、彼の返事はどのケースでも「ジャパン社のフカエに任せてある。」誠に得難い信頼関係でした。

 

結果としてブルガリはあれほどメディアや業界の話題になりながらもブームになることなく、歴史に残る未曾有の90年代「平成不況」のなかで、93年から私が退任する03年までの10年の間、毎年の売上高の前年比指数が平均125という連続した右肩上がりの実績を残すことが出来たことでした。

 

 

トップダウン成功の裏で、現場担当者たちの大苦労

上がカッコ良くキメればキメるほど、苦労するのは下であるのはどの世界でも同じ。冒頭に述べたバイヤーあたりまでは部長に直結しており、ブルガリとの状況を逐一把握していましたが、催事や外商などの現場では、どの百貨店にもそれぞれのやり方やしきたりがあり、またそれ一筋と言われるベテラン担当がいてなかなか一筋縄では行きません。担当者のそのあたりの苦労話はまた稿を改めて披露したいと思います。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

平成257

深 江  賢(ふかえ たかし)

プロカメラマンの要求で、時計とリングを見せるポーズ(96.4)
プロカメラマンの要求で、時計とリングを見せるポーズ(96.4)