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ブルガリと私の回想録13

トップ広告代理店とのタイアップがブルガリの大ブレイクを促進


- 斬新な発想による「アワード」の創設がその流れを加速 -

 

◇雑誌はどこから読みますか?

 

雑誌を手にすると、まずは記事ではなく表紙裏、裏表紙とその内側を見、次いで中央のページを見る習慣がいつの間にか私の身につきました。これらは業界用語で<表2・表4・見開き>などと称される広告の基幹ページで、真っ先に読者の目を惹くところだけに、当然広告料も高くなるものの、広告主が殺到します。従って主要雑誌のこれらのページをどれだけ押さえているかが広告代理店の実力となり、ブランドは継続的に出稿してパワーを見せる場となります。



ジャーナリストの友人が「新聞は記事そのものよりその行間を読むんだ」と言ったことがありますが、私の雑誌でのこの習慣は、ブルガリが取り組んだ広告代理店とのビジネスを通じ、これがブランドの栄枯盛衰をみせてくれるという知識を得たことによるものでした。月刊誌、週刊誌の同じページに継続的に出稿していたブランドがいつの間にか消えていたり、競合する二誌の片方だけに出稿していたブランドが突然ライバル誌に移ったり、実に様々なお家事情が見え隠れ、下手な記事よりずっと面白いと言うわけです。

◇代理店の桁外れなアイデア、当時の超高価な新聞の1ページに広告を

 

今でこそ新聞は、広告の中に記事があるような錯覚を持つほど1ページ広告や2ページにわたる見開き広告が氾濫していますが、90年代の新聞は報道の中心として権威も高く、発行部数1千万部超が軒を並べ、その貴重なページを1ページまるまる広告に使うと言うのはまさに想定外。せいぜいページの下3段とか、半ページ広告が常識の中で、目玉が飛び出るほど高いその広告料もさることながらこのアイデアは強いインパクトでした。それも単純に1ページに広告を載せるという平凡なやり方ではなく、それを横に使って驚かせたり、また、村上龍氏、吉本ばなな氏など、時代の寵児作家とコラボして<読ませる広告>に仕立て上げたり、更には、私が著名人と対談する形を取ったり。さすが世界でもトップクラスの広告代理店、実にアイデアが豊富でした。

 

 

三枝成彰氏と対談する筆者 (96.12)
三枝成彰氏と対談する筆者 (96.12)

 

とくに対談ページは、日本経済新聞が創刊120周年に際し、時代の転換期に当たって企業の未来像を浮き彫りにする企業広告シリーズ「新しい創造型企業へ トップが語る未来戦略」と銘打って、96年1月初めから12月まで朝刊の全国版にほぼ毎週連載したもので、翌年早々にはこの77社のトップ・インタビューが冊子に纏められたほど力の入ったものでした。その顔触れを見るにつけ、まさに日本を代表する企業のトップが網羅されており、よくぞその末席に名を連ねることが出来たもので、これも当時のブルガリの日の出の勢いのなせる業だったのでしょう。

 

96.12.21付日経紙の対談ページ
96.12.21付日経紙の対談ページ
日経対談集冊子
日経対談集冊子

このあとも毎年12月の贈答期のピーク直前に照準を合わせて日経紙でこの形式を踏襲、私がホストとして対談し結構話題を醸したものです。96年の最初の対談相手は三枝成彰氏。以降、浅井慎平、ジョージ・フィールズ、トニー・マーウィック、パンツェッタ・ジローラモの各氏と続き、9・11ショックで2年休んだあと、03年に村上龍氏と続きましたが、私のジャパン社代表の退任と共に、ファミリー以外の露出許可も終わり、このシリーズも打ち止めとなりました。

 

 

◇<アワード>の先駆け、“ブリリアント・ドリームス・アワード”― 

  受賞者が翌日のスポーツ紙の一面を飾る

 

ブルガリの躍進に拍車をかけたのが“ブリリアント・ドリームス・アワード”(以下BDA)です。直訳すれば「輝く夢の賞」となりますが、趣旨は「自ら夢を実現した人物で、世の中の人々が自らの夢を重ね、憧れを抱くような存在が受賞の対象で、若人にいつも輝くような夢を持って!! とエールを送ろうという社会貢献的な賞」というものでした。


今や巷には<○○アワード>が氾濫、有名人が次々と業界や商品の宣伝に協力していることはご存じの通りですが、当時は72年創設の日本メンズファッション協会のベスト・ドレッサー賞は別格として、話題となるような賞が殆どなく、99年にBDAがこの趣旨の下に発表されるや、たちまち躍進ブルガリにふさわしいとメディアの注目を集めたものです。


 このアイデアは実はブルガリの若い顧客層の掘り起こしにあれこれ頭をひねっていたマーケティング部長の夢から発想が生まれたもので、それをアカデミー賞などの演出に重ねた代理店のサポートを得て具体的な形が出来上がりましたが、何といっても着任早々のメネガッティ・イタリア大使がイタリア国を代表する企業・ブルガリのアワードだと全面的なバックアップを下さったことが大きな権威付けになりました。会場は大使公邸の大使館。当然、出席者の事前登録と言う厳しい入場制限があり物議を醸すことも度々ありましたが、それが会場の格と相まって、更にこのBDAの権威を押し上げてくれたことでした。


受賞対象の選者は大宅映子氏、浅井慎平氏、坂本龍一氏にお願いし、私の在任中に限れば、個人賞は、99年中田英寿・金城武、00年松坂大輔、01年浜崎あゆみ、02年ケミストリー、03年中村獅童の各氏が受賞。各氏とも趣旨に賛同され、それもあって、00年、01年には受賞者が発表翌日のスポーツ紙の一面を飾るなど、週刊誌、雑誌が競って掲載したものでした。


かくしてBDAはブルガリ最大のイベントとなりました。授与式はメネガッティ大使のウエルカムに始まり、本社トラーパニ社長の受賞者紹介とトロフィー・記念品の授与。招待客はブラックタイのドレスコードのもと、VIP顧客とメディアの主幹クラス。ホスト側も、男性はタキシードに身を固め、セールスを中心とした女性陣は、ソワレを身に付ける数少ない機会とあって、モノ入りと言いながらも毎年ドレスを新調してここに臨むと言う心意気を見せたものです。


03年に大使館の大改修があり会場は三井俱楽部へ。その後も数年はBDAの話題性が続きましたが、キーパーソンの異動と共に当初の趣旨がうすれて数多のアワードの中に埋没、メディアの関心も遠ざかっているようです。

 

◇最初は予算不足で軒先借りの身、のちに母屋を乗っ取り、ブルガリ単独局に


 この代理店との取組みは紆余曲折がありました。94年初めに着任したマーケ部長の最初の仕事として広告代理店を決める段になり、大きなネックになったのが業界相場からはるかに少ない予算でした。ブルガリの世界での存在から、代理店は絶対にトップ2社のどちらかしかありえず、如何に<無い袖>を振るか。熟慮の末、世界でのブランドバリューとジャパン社の先物買いをネタに、ダメモト精神で飛び込んだのがキッカケでした。最初は大スポンサーを持つ一つの局のいわば軒先を借りたような立場でしたが、間もなく主客転倒、母屋を乗っ取る形でブルガリ単独の局となり、最初の担当はやがて局長に昇進、この両社の強いタイアップはこの時期の双方にとって大きなメリットをもたらしたことでした。(続く)

 2013年3月

                 

                                       深 江  賢(ふかえ たかし)