ブルガリと私の回想録 11
「チーム・ビルディング」と言う概念が斬新!
- グループ意識を高めるために、マネジャーたちの海外研修を次々と -
ロンドン・オリンピックで活躍した日本水泳チームのあのセリフは何故?

ロンドン・オリンピックでの日本の活躍はまだ生々しく耳目に残っており、年末の回顧でまたまたその時の感動を新たにしましたが、中でも強く印象に残っているのが水泳陣。
松田キャプテンから高校生の萩野君に至るまでがメディアに対し異口同音に「29人のチームワークの勝利」言ったことでした。
私も体育会運動部の端くれに身を置き、現在に至るもその世界での自校や他校との交流は続いていますが、スポーツの世界は1年違えば「神様」と「奴隷」と言われるほど長幼の序列の厳しいところ。松田キャプテンに「手ぶらで帰らせるわけにゆかない」と言わせた北島選手の存在は若いメンバーにとっては正に雲の上の人にもかかわらず、どのようにしてみんながこのような気持ちになれたのでしょうか。
「チーム・ビルディング」とは個人能力の開発を優先する

前10稿<七人の侍>で述べたように、新しいボスのマッキは私ども総支配人たち7人のチームワークを固めつつ、部門全体にこれを拡大しましたが、その研修では「チームワーク」と言う慣れ親しんだ言葉ではなく「チーム・ビルディング」と言う耳新しい言葉が使われました。
最近でこそこの表現はかなり耳慣れてきましたが、ポイントは、「チームワーク」が「チームのために何かをする」と言う「チームあっての個人」的なものであるのに対し、この概念は「個人あってのチーム」で「チームワークとは個人それぞれがチームに貢献したその結果」とするものでした。結果的には同じところに行き着くのでしょうが、個人の能力開発を優先するものだけに「チーム・ビルディング」と言う響きは非常に斬新でした。
マッキ管掌のジュエリー・ウオッチ部門がブルガリの圧倒的主力と言うこともあり、このトレーニングは人事部門が担当。店長と本社のマネジャークラス以上をターゲットとして、人材コンサルタント企業とタイアップした色々な企画が展開されます。全ては「ファミリー意識」をベースにしたグループの結束を固めるのが目的でしたが、この研修を通じて、「自己完結できる能力」の開発、言い換えれば、「いちいち上司に相談せず、自分で判断して期待される結果を導く能力」を、特に店長に身に付けさせることが最大の狙いでした。一般的に日本では、店長の販売力、顧客保有力が最重視されますが、この点、当時のブルガリでは基本的なスタンスが全く違い、それと並行して、指導力・判断力・コミュニケーション力などが強く求められました。結果としてブルガリの店長たちの勤続年数が長いのは、このあたりがカギかもわかりません。

外研修の主なものを列挙すると、
✓インターナショナル・コンベンション
✓VOC (Voice Of Customer)
✓アドベンチャー・マネジメント・トレーニング
✓イマジン・プロジェクト (STWC、Customer Delight など)
などですが、何といっても最大のイベントであり、楽しみであったのは世界のグループマネジャーたちが集まるインターナショナル・コンベンションでした。
これはマッキの在任中に全部で4回、着任早々の94年、マジョーレ湖畔ストレーザから始まり、95年サルディニア島エメラルド海岸、97年ベニス、98年地中海沿いラパーロといずれも4月末から5月にかけてイタリアの代表的なリゾート地を選んで開催されました。
この中でインパクトが強かったのが最初のストレーザ。マッキ指揮のもと、世界の店長以上のマネジャークラス約60名が集結、パーティに次ぐパーティですっかり打ち解け、これが「ファミリー」と言うものかと感激するとともに、世界のブルガリの勢いを身をもって知り、ジャパン社設立後未だ結果が出ていないという肩身の狭い思いなど、すっかり霧散したことでした。
このような国際コンベンションの中では、それぞれの国の勢いが行動に反映されます。次の95年は、ストレーザ直後からのV字回復が軌道に乗ってきた勢いと新ショップによる日本の参加者が増えたこともあり、みんなの気持ちがノッテいました。
「英語が多少不自由でも日本人同士で固まることは絶対ダメ」という私のハッパもあり、それぞれが積極的に交流に挑戦。薄暮ドリンクパーティ、ディナー会、バス小旅行、ゴルフ、ダンスパーティ、歌合戦などの場で、ディナー・アトラクションのMISS/MR投票では長身の東京店長が準MRに選ばれ、ダンスでは元大学ダンス部の大阪店長が華麗なステップでホールを魅了、歌合戦では福岡店長リードの入念なリハーサルのもと「君の瞳は10000ボルト」でJapan!を連呼するなど、全てで日本の存在感が大きくアップしたのは実に嬉しいことでした。このあと21世紀に入るころまでは、日本抜きにはブルガリを語れない時代が続きます。
回想録6で紹介しましたが、97年のベニスでは明確なテーマVOCが設定され、続いて98年ラパーロでも同じ形で行われましたが、グループの規模が拡大し、本来の効果が望めなくなったうえ、マッキの2000年始めの異動もあり、このコンベンション企画は長いグループ歴史の中でもこの4回限りとなりました。
ユニークな研修、アドベンチャー・マネジメント・トレーニング(AMT)
4日間に亘るAMTでは、マネジャークラス以上がストレーザ、管理部門がロンドン郊外、一般スタッフが地元で、日本は28名がUSAチームと合同でストレーザ、140名が3班に分かれて八ヶ岳で行われました。フィールド・アスレチックス似の特別施設で、チーム目標・個人目標を「課題としての障害」を協力しながら乗り越えることによって信頼関係を築くと言う研修です。
✓2mの高さから目隠しをして後ろ向きに倒れ、下で仲間2人が受け止める
✓30m間隔の2本の木に高さ15m程に張ったロープを二人が両側から渡り、交差して反対側まで行く
✓高さ15m位のポールを登り、そこからジャンプしてボールを叩く
✓2mほどの高さの壁をチームで乗り越える
✓フィールドの一部を川に見立てて、限られた道具で制限時間内に渡る
などの内容で、最初はネガティブな人も結構いましたが、進むにつれて真剣になり、最終日の実技終了時には感動して涙を流した人も多かったほどでした。
日本独自の「チーム・ビルディング」については稿を改めます。(続く)
2013年1月
深 江 賢(ふかえ たかし)