NAGASAWA Magazine|ながさわマガジン

フランス香水紀行・香りは日本へ・第8章 編集部

香りは日本へ         星谷 とよみ

ときは、盛夏。

燃えさかった太陽も、横になろうかという

気怠い午後・・・・、私たちは「静寂」という風を聴く。

吊り香炉からうっすらと、たなびく、ひとすじの香りの帯

時を超え、窓を超え

ひたすら平穏を、濃くするためにのみ、それはやってきた。

 

 

京都が京都であるために、町中の“鼻„が活躍してきた。

「お香はよろし、香水は?」“鼻„たちは、ちょっと困った顔をする。

「きついのは、かなわんしな。ただ、芸妓はんは、香水のようでないとあか

んしな・・・・・」

さて、祇園の芸妓、真澄さんは、どんな香りを身にまとう・・・・。

「お風呂のあとは、水白粉、それからかつら、着物きて・・・・」

祇園の女の支度に香水はない。しかし、芸にきたえられた身のこなしは、あたりの空気と静かにまじわり、室内のどこらから立ちのぼる香りの行方を動かす。真澄さんの立ち去った後、存在そのものの、ほんのりとした香りの世界がそこにあった。

西洋から東洋へ。日本に伝わった香りの文化あ、動よりも静の美意識に昇華し、生き続けている。

日本の香料史の始まりは、六世紀の初め、仏教伝来のころに遡る。香を焚き花を供えることから始まった仏教の礼式。

香水沈香の渡来が、宗教儀式からさらに生活の様々な場面での香の利用を広げていった。

着物を伏籠の上に広げて薫香を着物に焚きしめ、香を焚く容器を仕込んだ香枕で高貴な女性の髪に香りをつけ、さらに香料の調合をかき分けて楽しむ香道へと発展していった。

香料か仏教を離れて、どんどん趣味性を高めていった平安時代。香りが言葉以上に、香りが言葉以上に濃やかにこころの機微を表し、香の種類に、その焚き方に、情趣を感じあう、日本人と香が最も密接だったころの話。

「源氏物語」には、日本人の感性の原点の究極が描かれている。

私たちが感じていることのすべて、例えば、四季の移ろい、花の咲きゆくさま、匂い立つ香り、万物の生と死の無常観。目に見えないものの微妙な気配・・・・。

植物や食ものも民族の匂いの基本文化として感じ方に違いを作る。先ごろの米騒動で改めて思い知ったのか、ごはんへの強い執着、炊き立てのごはんの、あの、ほのかな湯気の匂い、焚きあがったご飯の匂いは、硫黄化合物の匂いだそうだ。儚い甘味に感ずる優しさを離乳以来食べてきた私たちだから、それを失うことはことのほか淋しい。そういえば私たちは、最もデリケートな魚に、最も美しい名前を付けている。

「香魚」・・あゆ。清流の岩や、石のまわりの藻をたべて放つその香りを、私たちはこよなく愛する。

 楊貴妃という香水のありや無しや

    香水の香りにも争ふ心あり

    一世紀前の香水瓶ありて

    香水に孤高の香りあらまほし

    香水のあるか無きかの身だしなみ

    汗の香に香水の香の美人かな

               高浜 虚子

美貌の仏像、楊貴妃観音(泉涌寺所蔵)。王冠は宝相華唐草の透かし彫。その下に観世音の冠。手には極楽の花の宝相華。広隆寺の弥勒菩薩に匹敵する美しさ。
美貌の仏像、楊貴妃観音(泉涌寺所蔵)。王冠は宝相華唐草の透かし彫。その下に観世音の冠。手には極楽の花の宝相華。広隆寺の弥勒菩薩に匹敵する美しさ。

昭和三十三年八月二十二日の夏行句会は、鎌倉婦人子供会館で行われた。

句日記(新樹社)によると、午前とある。

高浜虚子は、上記の句をいつ読んだのだろう。前の晩か、当日の朝か。

由比ガ浜から吹く風は、前の晩ならいささか艶めかしく、朝なら生まれたての朝風。どの句がいつ読まれたか、詮索するのも一興。

虚子は遊びの達人でもあった。家庭にあっては五女の父。年頃の娘に囲まれていた。

香水を男の鼻でかぎとった句、背後に美女ありきを思わせる句など興味深い。

特に楊貴妃の句。その名の香水のありやなしやとある。

美女伝説は、虚子の胸に香水の存在を思わせたのだろうか。

京都の御寺・泉涌寺(皇室の菩提所)に楊貴妃観音像がある。

楊貴妃は唐の玄宗皇帝の妃。絶世の美女であり貞節の徳もあり、国民の鑑であった。この美妃像を皇帝は香木で造顕させている。

楊貴妃はまさに香の化身でもあった。

中国の三大美女。西施(春秋)、楊貴妃(唐)香妃(清)美女たちは「挙体芳香」全身から素晴らしい香りを放っていたと語り継がれている。

楊貴妃の体臭そのものが麝香の香りがしたという。

美女であって、美徳もあって、さらに才知があって、歌舞にたけ、豊満な容姿からこの香り・・・・。皇帝は身の心もとろけてしまい、ついに政務にも支障をきたしたという、そして、楊貴妃は討たれてしまった。

皇帝は妃の棺を「竜脳」の香りで満たした。

美貌も芳香も妃の天性であり、責められるものではないだろうに。

並み外れた美と芳香は、城(国)を傾けるほどの力があるということだろう。

もうひとりの美妃は、その名も香妃。

この妃も身体からかぐわしい香りを発していた。

「睫毛は長く、くちびるは赤くさくらんぼうのよう。漆黒の髪、すらりとした肢体、手は、白玉のよう」

香妃伝説の舞台は十八世紀、清の時代。シルクロードの中国西城。ウイグル族の王・ホジ・ハーンが清に反乱を起こし、失敗、王は殺された。

その王の妃が香妃。妃のまりにも美しさに清の皇帝は恋に落ち、妃を北京に迎えたが、皇妃はとって皇帝は夫の敵。夫への貞節に殉じ、皇妃は悲劇的な最期を迎える。皇妃の美貌はその身体から発する香り沙棗(サソウ)とともに語り継がれてきた・・。

このロマンに胸を熱くした男たちがい。資生堂と高砂香料の研究チームが調査隊を組んでシルクロードに向かった。皇妃ゆかりの沙棗(サソウ)を求めて・・、果たしてその開花の時期にごくわずかの沙棗(サソウ)の咲く地域が見つかるか、皇妃に導かれたような幸運、研究者たちは幻の沙棗(サソウ)と出会った。こうして生まれたのが資生堂の香水「SASO」。

 

沙棗(サソウ)SASOとは

花コーナーの事典や図鑑には中国名からは検索できるものはない。『大漢和』にも沙棗はない。『中国四季の花』、シルクロードの写真集にも載っていない。 2 『世界有用植物事典』に中国名索引があり、沙棗の和名はホソバグミ=ヤナギバグミであると分かる。

 

1987年に発売されたこの香水は、ロマンを秘めた大人の女のセクシーさを封じ込め、いきながく愛されている。ほんのひとしずくにも壮大な物語が秘められている香水づくり。日本の香水史をたどりながら、日本ならではの香水のありようとその魅力を探してみよう。

 

日本の四季は規則正しく巡ってくる。

日本で最初の香水の発売以来、資生堂が創ってきた香水史は、そんな日本の健気な四季の花々の美と香りを綴っている。

1917年(大正六年)に花椿香水、ヘリオトロープ、匂ひ菫、白ばら。

翌年に梅の花、藤の花、水仙・・・・。

当時の調香師は、福原信三(資生堂初代社長)「“鼻„の福原」の異名をほしいままにした。自然の香りを直接写すのではなく、そこからイメージを広げ、さらに調香のモチーフを豊かに広げた。

現在、資生堂の調香師を代表する中村祥二氏に近年の香水作りの方向を聞いた時代をとらえる香り、時代を先行する香り、それを的確にイメージする。

よい香りとは、特徴があること、調和がよいこと、拡散性、持続性があること。

…香りの日本史、それはいつも、心身に平穏をもたらすものを創ってきたということが分かる。

祇園の元名妓、孝江さんに聞いた香水秘話。

「お座敷では使いませんが、夜一人になってほっと一息つくとき、私の香水を少しつけるのです」

日本の女は、たしなみと楽しみのために、静かなかおりのときをもつ。

 

いろまちの女のたしなみは、着物の着かたで分かる。

夜の深さは、香りの好みにあらわれる、

美しい女の、まとわりの好みが、心の体をくすぐる。

からだに触れる喜びが、男の自分を躍動させる、

その持続が、男と女の勝負だ。

 

企画・構成・nagasawamagazine・編集部

企画・制作・取材・写真・婦人画報社・編集部 ・星谷ともみ・永澤洋二

掲載・1994年・8月号