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テストーニ日本 代表取締役社長 藤波 久仁子

1929年イタリア、ボローニャで177の工程をかけた美しい靴、テストーニは生まれた。24歳の靴の職人“アメディオ・テストーニ”は「世界一美しい靴」を目指し、その夢に向かって小さな村ボローニャでスタートを切った。


 アメディオ・テストーニは、靴に美しさを求めることと同時に、ファッション性を備えた新しい感覚の靴を作り上げていく好奇心も持ち合わせていた。彼の靴はまたたく間に評価が上がり、世界の人たちの間で評判を呼んだ。

 

 伝統とはポリシーを指して言われる事で、ポリシーには絶ゆまざる革新を注入されなければ、ブランドは磨かれない。テストーニの伝統と気品を支える工房の、若きデザイナーたちの発想には、アメディオ・テストーニのスタイルが継承されているからだ。

この靴に魅せられた人がここにいる。ウィークス・藤波久仁子だ。父の仕事で、小学一年から高校卒業までイタリアで青春を謳歌していた。それもローマだ。当然イタリア語は達者になっていく。もうすっかり毎日の生活はイタリアレディだ。

大学に入学するために日本に戻り、日本文化に触れ、卒業間近、藤波は考えていた。藤波のイタリア語学力はさらに上がっていった。あるとき、日本企業から声が掛かってきた。通訳をしてくれないか。藤波は戸惑った。しかし、興味はあった。明るさと行動力は誰にも負けない自信があった。一つの企業に縛られるより、面白いかも知れない。新しい世界に飛び込む事に抵抗はなかった。よし、トライしてみよう。飛びこんだ。

瞬く間に、藤波の飛び抜けた上手さのイタリア語は評判を呼んだ。イタリア在住の日本企業からの仕事依頼は殺到していった。あらゆる企業の間に立って、藤波の通訳人生は羽ばたいていった。藤波は仕事で頻繁にイタリアに行く機会が増えた。懐かしのローマの街角の、あるショーウインドウに目を奪われた。なんて美しい靴なんだろう。

「一度履いたら他の靴は履けない」と賞されているテストーニ、ボロネーゼ製法の靴との出会いだった。藤波は、靴に興味があった。小さいときからのローマ生活でオシャレの基本は靴からだ。イタリアのライフスタイルの教えだった。通訳の仕事は順調だ。しかし、これでいいのか。藤波は思った。クリエイティブな仕事をしたい。その思いは日々強くなっていた。

イタリアで出会った人が藤波に声をかけてきた。銀座でイタリアの靴のショップを出したい。その責任者としての要請だ。それが藤波の人生を決めた。イタリアの靴はどこの国の靴と比べても、気品と伝統、そして何よりもデザイン、技術に勝っている。
藤波は、日本で世界最高の靴を扱う喜びを感じていた。顧客も増えていった。

当時はバブル時代。イタリア、フランス、世界のファッションブランドが日本を席巻していった。その後、バブルも落ち着きを見せ始めていた。ファッションの一部に身を置いていた藤波は、今後を考えていた。

ある日、イタリアの名門靴ブランド“テストーニ”から声が掛かった。尊敬している元ブルガリ日本社長・深江賢からだ。深江は日本テストーニ社長をしていたそのとき、自身の引退を考えていた。誰か靴を愛する人はいないか。そこに、藤波久仁子がいた。深江は、彼女なら任せられる。そう判断した。藤波は即答した。分かりました。藤波は深江の後を継いだ。ローマで見た気品あふれる、ショーウインドウに飾られていた「世界一美しい靴」、テストーニだ。

 

再び運命の何かを感じた。ファッションと靴の関わりは古い。男女共に足元からファッションを考えていくことが基本だ。どんなに高価な服を着ていても、靴が悪いと全てが壊される。昔の人が言う「人を判断するのは足元を見れば分かる」。靴の重要性は昔から変わらない、人を評価する一つのヒントだ。

 

 

藤波久仁子は今、感じていた。

そうだ、この“テストーニ”こそ私のスタイルなのだ。いままで分からなかったスタイルが今、目の前にある。テストーニはもともと男の靴からのスタートだ。いまは、女性の靴も多い。しかし、藤波は思った。もっと女性に愛される靴を、このショーウインドウに並べたい。男女に愛される“世界一美しい靴“テストーニ”を。

 

企画・取材・文  永澤 洋二
写真 五頭 輝樹